先日投稿した京都東山の法観寺(八坂の塔)は、聖徳太子の開基と伝わり、五重塔の須弥壇下には飛鳥時代の中心礎石が残っています。聖徳太子開基については信憑性は薄いようですが、飛鳥時代に遡る歴史を有するお寺であることは確かです。今回取り上げる乙訓寺も、寺伝では聖徳太子開基です。ただ法観寺同様にそれについて確かな証拠はなく、境内から白鳳時代の瓦が出ていることから、創建もその頃だろうとされています。
乙訓寺があるのは京都府長岡京市です。長岡京市は京都盆地の西南に位置し、北は京都市と向日市、東は京都市、南は大山崎町と大阪府の島本町、西は西山連山を挟んで同じく大阪府の島本町と接し、市の南東には桂川が流れています。旧石器時代から人の営みのあった土地で、旧石器、縄文、弥生、古墳各時代の遺跡が多数出土、特に古墳については乙訓古墳群(国史跡)に代表されるように数多く現存していますが、長岡京市の歴史で最も知られているのは、桓武天皇が平安京遷都前に十年ほど都を置いた長岡京でしょう。長岡の地に宮都が遷されたのは延暦三年(七八四)、八世紀後半です。乙訓寺が創建されたのは七世紀後半から八世紀初めまでの間と考えられますので、長岡京の時代より前になりますが、乙訓寺にとって長岡京遷都は無関係ではありませんでした。
現在乙訓寺は長岡京市に、長岡京跡の史跡は向日市にありますが、この辺りは古代の令制において同じ山城国乙訓郡に属していました。乙訓郡には現在の長岡京市のほか、向日市、京都市の伏見区、南区、西京区の一部も含まれていました。乙訓寺の歴史を振り返るにあたり、古代の乙訓郡の範囲で見ていったほうが良いので、一帯を乙訓地域と呼ぶことにします。
ちなみに乙訓は和銅六年(七一三)以前は弟国と表記され、その地名の由来が記紀にも記されています。『古事記』の話を元に簡単に書きますと、垂仁天皇が丹波比古 多々須美知能宇斯王の娘四人を召し上げた際、下の二人(歌凝比売命と円野比売命)は醜かったため故郷に返され、それを恥じた円野比売命は山城国の相楽で首を吊り、弟国で淵に堕ちて命を絶ったことから、懸木が相楽に、堕国が弟国になったということです。『日本書紀』では娘は五人で、一番下の竹野媛だけが返され、葛野で輿から自ら堕ちて亡くなったとあり、多少違いはあるものの、どちらも堕国に弟国の起源を求めています。
その乙訓地域には古代多くの豪族が勢力を張っていました。『長岡京市史』によると、たとえば乙訓南部の山崎郷には間人造が、東北の物集郷には物集連が、北西の石作郷には石作連や六人部連などが、といった具合で、渡来系と火明命の後裔とされる氏族が混在していたようです。
乙訓の北は葛野で、葛野は秦氏の勢力が広く及んでいた土地です。乙訓地域の南東を桂川が流れていますが、その流域には早くから開発の手が入っていたと想像されます。灌漑や河川改修を得意としていた秦氏は、山城盆地に入る前にまず葛野より南の桂川流域に腰を落ち着けたかもしれません。とすれば、乙訓に勢力を張った渡来系氏族というのも、秦氏の流れを汲んでいたことが考えられます。何より桂川右岸に残る多くの古墳が、そうした秦氏の存在を伝えています。
ところで中央では六世紀になると武烈天皇に続く後嗣が途絶え、応神天皇五世孫とされ越前を統治していた男大迹王が迎えられ、五〇七年河内国の樟葉で継体天皇として即位します。(以前樟葉の伝承地について投稿しましたので、ご関心のある方はそちらもご覧ください)ところが、その後すぐに大和国に入らず、五一一年に筒城宮(現・京田辺市)、五一八年には弟国宮に留まり、磐余玉穂宮(現・奈良県桜井市)に入ったのは五二六年でした。継体天皇は八年近く弟国宮にいたことになりますが、その弟国宮は、「弟国」と書かれた須恵器杯が出土した長岡京市井ノ内や今里付近だったのではと考えられています。今里というのは、まさに現在乙訓寺がある辺りです。近江出身の継体天皇は、大和入りの前に乙訓地域の豪族との関係を築くことが重要と考えたのかもしれません。
六世紀後半になると前方後円墳が次第に造られなくなり、古墳に代わり権力の象徴として寺院が造られるようになります。多くの豪族が勢力を張っていた乙訓地域でも鞆岡廃寺、樫原廃寺、南春日町廃寺、山崎廃寺といった古代寺院が建立されました。乙訓寺もその一つです。古代寺院で現存するのは乙訓寺だけですが、地名を寺名に冠する寺であることから、郡内で最も力のある豪族によって創建されたのではないかということです。
乙訓寺が文献に現れるのは平安時代で、『日本略記』延暦四年(七八五)九月の条に、長岡京造営責任者だった藤原種継暗殺の容疑をかけられた皇太子の早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉された場所として登場します。長岡京には関連する寺として七つの寺があったと『続日本紀』にあります。七つの寺については今なお不明ですが、その一つが乙訓寺だったと考えられ(現在乙訓寺では京内七大寺の筆頭としています)、創建当初は当地を治める豪族の氏寺としての性格だったものが、長岡京の時代になると官寺の性格を帯びてきたということのようです。
境内にはその歴史を伝えるものとして、早良親王の供養塔があります。早良親王は無実の罪を訴え絶食し、淡路島に流される途中河内国の高瀬橋付近で亡くなりました。ちなみに、その後桓武天皇の周辺で起こった相次ぐ不幸は早良親王の祟りによるものだとされ、桓武天皇は早良親王を崇道天皇と追称したり、鎮魂の儀式を執り行ったり、神社でお祀りするなどして霊を慰めています。(以前投稿した上御霊神社もその一つです)
歴史上乙訓寺の名が次に出てくるのは平安時代で、弘仁二年(八一一)から三年にかけての一年間、空海が嵯峨天皇の命で乙訓寺の別当を勤めています。空海はそれに先立つ大同四年(八〇九)に高雄山寺(後の神護寺)に入山していますので、高雄と乙訓の間の行き来が多少あったのでしょうか。空海が乙訓寺の別当を勤めていた間、ここに立ち寄った最澄とまみえ、書状などを取り交わしています。
中世には禅宗に改宗、室町時代兵火により多くの建物を焼失し衰微しますが、江戸時代の元禄年間に、徳川綱吉の信任を得、将軍の祈祷寺だった江戸護持院住職の隆光が乙訓寺を貰い受けて復興に着手、真言宗に改宗され、綱吉の母桂昌院の寄進により堂宇が再建されました。従って現在の伽藍はその当時再建されたもので、下の写真にある表門、本堂、鐘楼はいずれも元禄八年(一六九五)築です。なお御本尊は空海と八幡大菩薩が合体した合体大師像ですが、秘仏のため拝観できません。
境内には神仏習合時代の名残で八幡神社があります。
現在の乙訓寺からは古代寺院の様子は見えてきませんが、発掘調査により少しずつ白鳳期の様子がわかってきています。昭和四十一年(一九六六)に乙訓寺の北に小学校を建設するにあたり発掘調査がなされて以来、たびたび調査が行われ、白鳳期の瓦や講堂と推測される建物跡、主要伽藍を取り囲む回廊の雨落ち溝と推測されるもの、瓦窯といった創建当時の様子を知る手がかりが見つかっています。それにより、東に塔、西に金堂が配された法起寺式の伽藍配置だったことが考えられ、東西三町(約三百メートル)、南北二町(約二百メートル)と現在よりかなり広い敷地だったようです。
目下の関心は、乙訓寺を創建した豪族が誰だったのかということです。乙訓寺の北東四百メートルほどのところに、古墳時代中期、四世紀後半から五世紀前半ごろのものと見られる全長約七十五メートル、後円部直径約四十七メートルの大型の前方後円墳がありました。現存しませんが、今里車塚古墳といって東向き(後円部が乙訓寺の方向)に造られた古墳で、後円部の墳丘裾の葺石に沿って柱が埋められていたり、周辺から笠形の木製品(埴輪のようなもの?)が出土したりしたことから、被葬者はかなりの有力者のようです。今里車塚古墳と同じ笠形の木製品が誉田御廟山古墳(応神天皇陵)からも出土したそうです。後の時代に乙訓寺を創建したのは、その古墳の被葬者の後裔にあたる豪族なのか、それとも途中で権力の交代があったのかどうか…。あるいは、乙訓寺の南五百メートルほどのところに、古墳時代後期、七世紀前半に造られた今里大塚古墳があります。この古墳は山城一帯で最大級の横穴式石室を持ち、乙訓地域においては最後の大型古墳です。その被葬者の後裔が乙訓寺創建に関わっていたのかどうか…。想像の域を出ませんが、そのようなことを思い描いているうち、乙訓古墳群を訪ねてみたくなりました。
四月の乙訓寺といえば牡丹が有名です。例年ですと表門から本堂までの参道に色とりどりの牡丹が花を咲かせ、参拝者の眼を楽しませてくれますが、三年連続牡丹祭は中止、今年は生育不良もあって、数株をのぞいて花芽を摘み取り養生の年としたというので、なんとも複雑な気分です。来年見事な花を咲かせてくれることを期待しましょう。
普段何気なく足を運んでいる神社やお寺は、そこに造られた理由が存在します。土地の歴史と寺社の歴史を一緒に考えることで、見えてくるものもあるように思い、今回は乙訓地域の歴史を簡単ながら記しました。土地の歴史を知る中で、古社寺の歴史に近づけたように感じることがたまにあります。逆に古社寺の歴史から土地の歴史を知ることもありますが、私のような素人にとって、そうしたことを考える時間は、白地図に少しずつ色を乗せ等高線を描いていくことで地形が立体的に浮かび上がってくるのにも似て楽しいものです。