京都東山三十六峰の一つ如意ヶ嶽の麓に、平安時代の高僧円珍が道に迷った際、一頭の鹿が現れ導いてくれたという伝承に由来する鹿ヶ谷というところがあります。鹿ヶ谷はまた、後白河法皇の近臣らが平家打倒の企てをしたという、俗に言う鹿ヶ谷の陰謀の舞台となった場所でもあります。鹿ヶ谷の陰謀については、清盛のでっち上げという説もあり、注意が必要ですが、山懐に抱かれた当時の鹿ヶ谷は秘密裏に事を進めるのに相応しい場所であったということは確かでしょう。その鹿ヶ谷、現在は哲学の道の両側に拡がる閑静な住宅街で、銀閣寺から若王子神社までの琵琶湖疎水分線に沿った哲学の道から少し東の山側には、哲学の道と並行するように山麓を縫う細い道が走り、その道沿いには八神社、浄土院、銀閣寺、法然院、安楽寺…と寺社が点在しています。哲学の道から東に数百メートルも行けば道は急坂となって山の雰囲気が色濃くなります。かつて山に向かう道のどん詰まりのような場所に鹿ヶ谷山荘という名の日本料理店がありましたが、そこもまさに山懐に抱かれた地形を活かした店で、内装も隠れ家的、趣きがありました。だいぶ前に閉店し、現在そこはどうなっているのでしょうか。ともあれ山を背に濃密な自然に抱かれたその場所は、空気までもがどこか違うような気がしたものです。
さてそのような鹿ヶ谷に、霊鑑寺という尼門跡寺院があります。開基は江戸時代初期。第百七代後陽成天皇の典侍であった持明院基子は、慶長七年(一六〇二)後陽成天皇の第六皇子にあたる堯然法親王を出産された後、慶長十七年(一六一二)に出家、堯然法親王が門跡を務めていた妙法院の領地であった鹿ヶ谷に屋敷を構え、そこに一宇を建立しました。寛永二十一年(一六四四)基子没後、第百八代後水尾天皇によって承応三年(一六五四)寺号を円成山霊鑑寺とすることを勅許され、基子の遺志を継いで後水尾天皇の第十二皇女・月江宗澄(多利宮)を得度入寺させたことに始まると伝わっています。
霊鑑寺という寺名は、東の山中で荒廃していた如意寺の本尊如意輪観音と霊鏡が当寺に遷されたことに由来するようです。如意寺は平安時代の初めに円珍によって創建されたと伝わる寺ですが、南北朝の戦乱で焼失、荒廃の一途を辿っていました。それを後水尾天皇が夢で感得され、如意寺の如意輪観音を霊鑑寺のご本尊としてお迎えしたということのようです。
月江宗澄亡き後門跡を継いだのは、第百十一代後西天皇の第三皇女・光山宗栄(幼名:巽宮、諡は普賢院)。貞享二年(一六八五)に後西天皇が崩御された際に旧御所の御休息所と御番所が移築されたことから中興の祖とも言われます。それらの建物は、現在書院と玄関として使われています。
写真上が玄関、下が書院です。現在書院は拝観できませんが、尼門跡寺院ならではの優美なしつらえを最も感じることができる場所です。写真などで見ますと、円山応挙、狩野永徳、狩野元信の障壁画や下賜された数百点に及ぶ御所人形はどれも雅びな雰囲気です。
上の写真からもわかるように、自然の地形に沿って建物が配されており、本堂は書院より高い位置にあります。本堂は享和三年(一八〇三)徳川家斉の寄進によるそうです。こちらも建物内には入ることができませんが、御本尊の如意輪観音はここにお祀りされています。
谷御所とも呼ばれた霊鑑寺には、その後も皇女、皇孫女が入り、第五世・法山宗諄(伏見宮貞敬親王の第九王女)まで皇女の尼僧が住持を務めました。
後水尾天皇が椿の愛好家だったことから、霊鑑寺には百種類近い椿が植えられ椿の寺としても知られますが、傾斜の急な地形を生かした回遊式の庭園にあることで、その美しさも一層引き立っているようです。
霊鑑寺の椿として最も有名なのが、後水尾天皇遺愛の樹齢四百年に及び日光椿《じっこうつばき》でしたが、あいにく七年程前に枯れてしまい、現在はその子株である別の日光椿(写真上)が石庭に色を添えています。
枯山水かと思いましたが、説明には池泉回遊式庭園とあるので、かつては水の流れがあったのでしょう。
書院南側の斜面を利用して造られた庭には、多くの石が配され、力強ささえ感じます。
起伏を楽しみながら園内を散策していると目に留まるのが散り椿です。
枝に咲いても美しく、散っても美しい椿は、強い意志を秘め入寺した尼門跡の姿に重なるようです。
玄関脇の椿にはヒヨドリの姿もありました。
紅梅も満開。椿も梅も暖色の花が多く目に付き、春の陽差しと相まって柔らかな雰囲気に包まれていました。
ちなみに尼門跡寺院というと、京都には霊鑑寺のほか、大聖寺、宝鏡寺、曇華院、光照院、林丘寺、三時知恩寺、 慈受院、宝慈院、本光院が、奈良には円照寺中宮寺、法華寺があります。奈良の尼門跡寺院は別にして、京都の各寺はどこも通常非公開ですが、期間を限り特別公開されることもあるようなので、折を見て他の尼門跡寺院も拝観できたらと思います。