大阪の繁華街というとキタとミナミがあります。キタは梅田や北新地周辺、ミナミは難波や心斎橋周辺ですが、繁華街に出かける機会が少ないこともあって、いまだにこれらの街に来ると新鮮な感覚で(こういう場合はお上りさんと言ったほうが適切かもしれませんが)、視線を右に左にと忙しく動かすことになります。今回話題にする大阪市中央公会堂はキタの、旧淀川本流の中州である中之島にあります。
地下鉄淀屋橋駅で地上に出ると、すぐ目の前は淀屋橋。その下を土佐堀川が流れています。大阪の代表的な河川淀川は毛馬閘門で二手に分かれ、一方は西に直進して大阪湾へ、もう一方は大川となって南下します。大川の方が旧本流で、現在淀川という名で大阪湾に注ぐ方は、改良工事によって出来た新しい流れです。旧本流の大川は大阪城の北で西に向きを変えると、中之島で南北に分かれます。中之島の北を流れる川が堂島川、南を流れる川が土佐堀川で、中之島の西から大阪湾までは安治川となります。
中之島は東西およそ三キロ、南北は一番長いところでも三百メートルほどです。パリのシテ島は長さが一キロほどのようですから、中之島の方が規模は大きいですが、川の中州であるということだけでなく、両者は似た雰囲気を持っているように感じます。それは中之島の、とりわけ淀屋橋以東にあるゆったりとした緑豊かな公園と、そこに残る明治から大正にかけてのクラシカルな建物、それらを包むように流れる二つの川が創り出す景観によるもので、大阪都市部の街並みとして、最も好きな場所の一つです。
淀屋橋を渡り中之島に入ると、向かって左には明治三十六年(一九〇三)築の日本銀行大阪支店旧館(写真下)、右には大阪市庁舎の建物があります。現在の市庁舎は四代目で昭和のものですが、昭和の終わりに現在の市庁舎が出来るまで、ここには大正時代のコンクリート造りの建物がありました。
大阪市庁舎から川沿いにゆったりとした遊歩道を東に歩いていくと、次に見えてくるのが大阪府立中之島図書館(写真下)。こちらも明治三十七年(一九〇四)築。住友吉左衛門の寄付金を元に造られたネオバロック様式の建物で趣きがあります。本館と左右の両翼は国の重要文化財に指定されています。
図書館の東隣が今日話題にする大阪市中央公会堂です。竣工は大正七年(一九一八)、地上三階、地下一階建ての赤煉瓦と石によるネオ・ルネサンス様式。コンペの結果、新進気鋭の岡田信一郎の案を元に、辰野金吾と片岡安の実施設計により、五年五ヶ月を経て完成した日本有数の公会堂建築で、平成十四年(二〇〇四)に国の重要文化財に指定されています。
公会堂の建物は中之島の女王的存在。印象的でどの角度から見ても美しいと感じます。下は土佐堀川に面した南側の様子。外階段を降りた地下一階はレストランになっています。
こちらは南東から見たところ。
この日は三階の中集会室でバッハの歌の演奏会があったので夜景の写真ですが、ライトアップされると昼間とは少し表情が変わり、ヨーロッパの街の一角にいるような高揚した気分になります。
壮麗な建築美をまとった公会堂建物は、内部の意匠も見事です。
上は一階東側の鉄扉を入ったところの大集会室ロビー。
上階へと通じる階段もクラシカルで美しいです。
上は千人規模の集会が可能な大集会室。かつてここでヘレン・ケラーやガガーリンも講演したことがあるそうです。この日は某高校の卒業式がありました。
そしてこちらが三階の中集会室。ヨーロッパの宮殿広間に入り込んだような明るく華麗な空間です。天井のステンドグラス、そこからつり下がるシャンデリア、アーチ天井、ホールを取り巻く回廊…と、どれをとっても優美です。南と北の回廊天井のステンドグラスは大阪の港をイメージした帆船と海をモチーフにした連作。東と西の天井には円形の油絵がはめ込まれています。
この日ここで行われたのは、オリジナル楽器と合唱によるバッハのカンタータとモテットの演奏会。この公会堂はネオ・ルネサンス様式の中にバロック的な感じもあり、バッハの調べとこの空間が見事に調和していました。(ちなみに通常は集会室内の見学はできず、自由見学エリアのみになりますが、毎月開催されているガイドツアーに参加すると特別室の見学ができます)
このように建築美の粋を集めた歴史的建造物が大阪市中央公会堂で、これを手がけた建築家たちの技術の高さに目を瞠りますが、これを可能にするためには莫大な資金が必要です。西隣の中之島図書館は住友家の寄付によるものでした。ここ大阪市中央公会堂は、岩本栄之助という株式仲買人が百万円(現在の貨幣価値でいうと五十億円以上)の私財を提供したことで誕生しました。
岩本栄之助は、当時の大阪で有力な両替商として知られていた岩本商店の次男として明治十年(一八七七)に生まれ、商業や外国語を学び、日露戦争に出征し陸軍中尉となって帰国後、早世した兄に代わって家督を継ぎ相場師としての才能を開花させます。明治四十年(一九〇七)の株式市場大暴落の際には、全財産を投じて北浜の仲買人たちを救ったり、私財と投じて若者たちの塾を作ったりと、勇猛果敢で信念を貫く岩本の存在はたちまち知れ渡り、北浜の風雲児と称されるようになりました。そんな岩本は明治四十二年(一九〇九)渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加し、アメリカの財界人が公共事業に財産を投じ公衆の便益を図っているのを目の当たりにすると、明治四十四年大阪市に対し公共事業費として百万円を寄付すると発表します。巨額の寄付に周囲は驚きますが。使途は決まっておらず、議論が重ねられていくなかで、最終的に絞られた案の中から市民の誰もが使うことのできる公会堂建設が選ばれました。
その後岩本は大阪電燈株式会社の常務取締役を務めるなど活躍しますが、第一次世界大戦下の株価大変動において、相場の読みがはずれ大苦境に陥ってしまいます。大阪市に寄付した百万円の一部を一時的に借用する案をもちかける者もいましたが、岩本は首を縦に振らず、大正五年(一九一六)自ら命を絶ちました。享年三十九。
その秋をまたで散りゆく紅葉かな
これは岩本栄之助辞世の句。
公会堂の完成はその二年後のことです。岩本栄之助あっての大阪市中央公会堂。竣工後、第二次世界大戦の戦禍を被ることなく、現在なお多くの人たちに愛され利用され続けているということがせめてもの供養になるでしょうか。
堂島川から見た公会堂も大きな存在感を放っています。