京都大学地震研究所阿武山観測所の門をくぐりアスファルトの道を上がっていくと、最初の見晴台を過ぎた先に阿武山古墳や山頂を示す表示が立っています。
表示の先には丸太の階段。ハイキング用に整備された山道で、阿武山古墳へはこちらから行く方が距離は短いようですが、道はやや急です。
そのままアスファルトの道を進むと、二つ目の見晴台を経て地震研究所の建物に至ります。
研究所の西から緑色のフェンスに沿って緩やかな狭い山道を上がっていくと、「史跡 阿武山古墳」の石標(前回の阿武山古墳(一)の冒頭写真)のところに出ます。古墳は南向きに造られていますので、こちらが正面になります。
初めてここを訪れたとき、山道に沿って続く緑色のフェンスの存在が不思議でなりませんでした。もしかして古墳はこのフェンスの中にあるのだろうか、とさえ思いましたが、墓域は木々の茂る向かって右側です。なぜこれほどぎりぎのところにフェンスがあるのかということが、阿武山古墳再発見の話に繋がっていきます。古墳再発見の立役者は阿武山古墳(一)でも触れた元朝日放送記者の牟田口章人氏です。牟田口氏の文章から当時の様子を再現してみることにします。
昭和五十六年(一九八一)京都大学考古学研究室の樋口隆康教授を通じ阿武山古墳のことを知った牟田口氏は、翌五十七年(一九八二)三月古墳の状況を空から見てみようとヘリコプターで撮影に向かったところ、古墳のすぐ西側の土が剥き出しになってえぐれているのを発見しました。古墳まで数十メートルという場所だったため驚いて調べてみると、大阪学院大学がグラウンド造成のため山を削り工事を進めていたことが判明しました。
阿武山古墳が最初に発見されたのは昭和九年(一九三四)で、現在では考えられないごたごたの末に埋め戻され、史跡に指定されることなくその後人々の記憶から遠ざかっていたことは前回書いた通りです。グラウンド工事の許可を出したのは、牟田口氏の本によると大阪府のようで、グラウンド造成地が調査途中のまま埋め戻された古墳にかかっている可能性があるということを忘れていたようです。(当時墓域が正確にわかっていなかったのではという声もあります。)牟田口氏によるこの偶然の発見は、すぐにニュースに取り上げられ、阿武山古墳の存在がおよそ半世紀ぶりに人々の意識に上るようになりました。
上にあげた写真に写っている緑色のフェンスが、まさにそのグラウンドとの境界に設けられたものです。昭和九年に続き何という悲運と思わずにはいられませんが、これにより文化庁は昭和五十八年(一九八三)阿武山古墳を国の史跡に指定、それ以上の破壊は免れることになりました。史跡に指定されたとはいえ数年の間はとくに整備されることもなく、荒廃するに任せる状態だったというのは残念ですが。
その後牟田口氏は、昭和九年当時を知る人から話を聞くなど、熱心に取材を続けていたところ、昭和九年に棺の撮影を手がけた島津製作所の技師だった男性と出会い、X線写真の存在を知ります。とはいえ半世紀近くも前のことですから、そのときの写真がその後どうなったのかわかりませんでした。写真発見は無理かと諦めかけていたとき、地震観測所は戦災にも遭わず当時のままであったことを思い出し所長に問い合わせたところ、予想が的中し、開かずの部屋から写真フィルムなどが発見されました。昭和五十七年六月のことでした。
発見されたフィルムはおよそ五年がかりで修復され、各分野の専門家による研究会が発足、そこからさまざまな研究がなされ少しずつ詳細が明らかになりました。(個々の調査結果は『藤原鎌足と阿武山古墳』や『甦った古代の木乃伊 藤原鎌足』に書かれています。)中でも頭部周辺に残っていた金モール(金箔より厚い金の針金を伸ばして糸に巻き付けたもので、薄い金箔を紙に貼って造られる金箔糸とは異なるそうです)が袋状の織物の縁取りとして使われていたことがわかり、大きさや金モールが残っていた位置などから、布製の冠だろうということになりますが、日本では七世紀の布製の冠がそれまで見つかったことがなく、断定には至りませんでした。その後韓国に似たようなものがあるとわかり、阿武山古墳の棺にあったものも布製の冠であるとされ、『日本書紀』の記述などとも照合しこれは最高位の織冠であると結論づけられました。織冠を授けられた人物は中臣鎌足ただ一人です。遺骨から推測される年齢からも、被葬者が鎌足ではないかという説が急浮上しました。
阿武山古墳の棺には副葬品が二つしかなかったのですが、もう一点の方も鎌足被葬者説を補強するものでした。それは五百あまりの大小さまざまなガラス玉で、発見当初は布で巻かれていたため形がよくわかりませんでしたが、X線写真や実体写真などからガラス玉を針金でつなぎ合わせた枕とわかりました。ガラス玉は大きな玉が紺色、小さな玉が緑色で、銀線で籠状に編み込まれ、大きなガラス玉は直径は四センチほどと当時のガラス玉として前例のない大きさです。研究グループの一人だった考古学者の猪熊兼勝氏がガラス工芸家の由水常雄氏にレプリカ製作を依頼し、苦心の末再現されましたが、それによって複雑で高度な技術が明らかになったそうです。どこで作られたものかはわかりませんが、国内外見渡しても同じようなものはなく、当時の最高権力者の命で作られたものである可能性が高まりました。
昭和六十二年(一九八七)十一月京大の考古学教室でそれまでの研究成果が発表されると当然ながら大きな脚光を浴び、連日大勢の人が阿武山古墳を訪れました。第二の阿武山古墳ブームですが、それも一時的なもので、その後はまた知る人ぞ知るという状態です。
二回にわたり、阿武山古墳の最初の発見から再発見・再調査に至るまで概要を列記してきましたが、書いていくうちに複雑な思いにとらわれたというのが正直なところです。古墳時代終末期の阿武山古墳は、ここに古墳があるということを隠すかのように、地中に墓室を設け築かれた古墳です。それが偶然発見されてしまい、その後ここに書いたような運命を辿りました。棺は昭和九年の騒動の後埋め戻されたままの状態で、発見された当時の状態が維持できているとは限りません。上の写真が墓室が設けられた場所で、現在埋め戻された墓室の上には樫の木が繁っていますが、これだけ木が大きくなると途中には根が張り巡らされているでしょう。また地震計設置のために掘った穴の跡が窪地になっていて、水がたまりやすくなっているそうです。人知れず埋葬されたのだから、このまま静かに守っていけばよいのだという考えもあるでしょうし、良好な状態の遺骨と類をみない貴重な遺品が見つかってしまった以上、状態が悪くなる前にしっかりと保存し、さらに調査をした方がよいのではという考えもあるでしょう。写真だけからでもかなりのことがわかったのですから、現物を前にしたらもっと多くのことがわかるだろうと思うと、ここで今一度掘り返して調査し、しっかりと保存したほうがいいのではないか…と素人ながら思うこともあります。牟田口氏のご尽力をきっかけとしてX線写真が発見され、専門家の先生方がそれを調査研究され、かなり具体的なところまで解明されていった経緯は、一歴史考古学ファン、一大阪ファンの心を熱く興奮させてくれました。被葬者が藤原鎌足であると断定するにはまだ至っていませんが、そうなのではないか、そうであったらいいなと夢を持たせてもらったことは確かです。
写真下はグランド造成工事がきっかけで行われた高槻市の調査で確定した周溝を示す表示です。
ちなみに復元された大織冠とガラスの枕は、高槻市にある今城塚古代歴史館で見ることができます。発見された写真を元に専門家の方たちの長年にわたる多大なご尽力があって、このように復元された形で見ることができるようになりました。
阿武山古墳は山頂から七百メートルほど南に築かれています。せっかくなので、山頂まで軽い登山をしてみました。登山といっても標高三百メートルに満たない山で道も整備されているので、地元の年配の方たちのちょうどよい散歩コースになっているようです。しばらく歩いていくと、注連縄の張られた榎の巨木が現れました。樹齢はどのくらいなのでしょう。根元には小さな祠がお祀りされています。阿武山の御神木のようです。
山頂までの間にもいくつか眺望の開ける場所があります。写真下は阿武山の北西方向の眺め。新しく出来た新名神も見えますし、木に隠れていますが安威川上流に出来た安威川ダムも視界に入っています。
こちらは西から南西方向。私が暮らす町も視界に入っています。
阿武山はこれといった特徴のない低山ですが、例をみない遺跡がこの山中に眠っています。大切な歴史遺産です。