近鉄の室生口大野駅から南に三百メートルほどの宇陀川沿いに、大野寺という真言宗室生寺派のお寺があります。白鳳九年(六八一)に役行者によって開かれ、天長元年(八二四)空海が室生寺を再興するにあたり当地にお堂を建て、慈尊院弥勒寺と称したことに始まると伝わっていますが、実際には室生寺同様に興福寺との関わりの中で創建されたようです。その具体的な創建時期や創建者のことはわかりません。大野というのは当地の地名で、いつしか大野寺と呼ばれるようになりました。
大野寺を有名にしているのは、他でもない、宇陀川沿いの巨岩に刻まれた優美な磨崖仏のためです。
切り立った岩を、光背の形に彫り窪め、そこに弥勒菩薩立像を線刻した磨崖仏で、国の史跡に指定されています。光背の高さは約十三、八メートル、弥勒菩薩の像高は約十一、五メートルあり、対岸からでもその大きさに圧倒されます。線刻されたもので全体が残っている磨崖仏としては国内最大だそうです。磨崖仏が好きで以前各地の磨崖仏を訪ねましたが、これまでに目にしてきた中で、川沿いにあるものは初めてです。前を流れる穏やかな宇陀川の風景とともにあることで、大野寺の磨崖仏は一層優しく優美に見えるような気がします。
この磨崖仏が造られたのは鎌倉時代の初期。承元元年(一二〇七)に後鳥上皇の思し召しで興福寺の僧の雅縁が棟梁となって制作が開始され、三年三月に上皇臨席のもと落慶法要が営まれています。開眼供養の際、後鳥羽上皇や公家たちの筆による願文が胎内に収められたと記録されており、大正時代の調査委の際実際それに相当するものが見つかったとか。実際に鑿をふるったのは宋の石工、伊行末一派のようで、『石仏縁起』などいくつかの文献に宋の石工の名前数人が記されているそうです。
伊行末は鎌倉時代初期に日本にやってきて、東大寺仏殿の再興に力を尽くしましたが、奈良を中心に多くの石造物を残しています。東大寺法華堂の石灯籠や般若寺の十三重石塔といった国の重要文化財に指定されているものばかりか、京都府南部の現在木津川市になっている加茂町に点在する磨崖仏のいくつかにも行末の名が刻まれています。加茂町周辺はのどかな道のあちらこちらに石造物が点在していることから石仏の里とも呼ばれます。私のお気に入りの場所の一つですが、その東の笠置に鎮座する笠置寺にも巨岩に刻まれた磨崖仏があり、それもまた見る者を圧倒するものです。笠置寺には巨大な磨崖仏が二つあり、一つは弥勒磨崖仏、もう一つは虚空蔵磨崖仏。弥勒磨崖仏の方は彫り窪められた光背しか残っておらず、そこにどのような弥勒菩薩像が刻まれていたのかわからなくなっています。鎌倉時代末の元弘の乱の際戦禍を被り焼失したためと伝わりますが、この笠置寺の弥勒磨崖仏は、大野寺の磨崖仏を模したものと言われています。
こちらが笠置寺の弥勒磨崖仏で、ここには下図のような磨崖仏が刻まれていたようです。
肝心の大野寺の磨崖仏は、あいにく手持ちのカメラでは繊細な線刻を捉えることができず、また目も悪いのでうっすらとしか見ることができませんでしたが、ここに刻まれているのは、とても繊細で優美な弥勒菩薩です。ご関心がありましたら、本などで是非一度ご覧になってみてください。
大野寺境内には、この磨崖仏を拝観するためのお堂があります。宇陀川の対岸が弥勒菩薩の浄土、彼岸ということで、そこから出現された様子が刻まれています。長年の風雨にさらされ、表面が剥落するなど傷んできたことから、一九九三年から六年がかりで保存修理が行われたそうです。
大野寺の磨崖仏は宇陀川の流れとともに時を刻んできました。優美な線刻が末永く残りますように。
ちなみに大野寺には見事な枝垂れ桜があります。いまはこのような姿をしていますが、満開になると空から流れ落ちる瀧のようで、それもまた見事です。