少し間が空いてしまいましたが、前々回投稿した丹波の福住の続きです。
福住の町並を見ながら篠山街道(旧道)を東に歩いていくと、家並みが途切れ、すぐ近くまで迫った山と土が剥き出しになった畑が現れます。宿場の名残を感じさせる町並と、自然豊かな農村集落が融合しているのが福住の魅力で、秋の今は色づいた柿や銀杏が農村風景に彩りを添え、散策の足が頻繁に止まります。
稲刈りの終わった田圃を過ぎると木立が見えてきます。木々の間から社殿の鰹木が透けて見えるので、それが住吉神社であることはすぐにわかります。社伝によると、福住の住吉神社は、永保元年(一〇八一)に丹波の国司だった大江正房が摂津国一宮の住吉大社から御分霊を勧進し創建されたことに始まると伝わります。住吉大社については以前当ブログでも簡単に取り上げていますので、関心のある方はそちらもご覧いただけたらと思いますが、御祭神は住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱)と神功皇后で、住吉大神の御神徳として、祓の神、航海安全の神、和歌の神、農耕・産業の神、弓の神、相撲の神が挙げられています。いまその詳細について述べることは省きますが、福住は川沿いに開けた町であったことや、大江正房自身和歌に秀でていたことなどから、当地に住吉大神の御分霊がお祀りされたと、神社の表示には書かれていますが、実際はどうだったのか…。
大江匡房は天喜五年(一〇五七)十七歳のときに丹波掾に任命されています。掾は四等級で構成されていた四等官制において国司の第三等官に当たる位ですが、匡房が実際に丹波国に赴任したかどうかはわからないようです。丹波国の国府の場所については諸説あっていまだ確定していないものの、現在の亀岡市に相当する桑田郡という説が有力です。福住があるのは多紀郡で、国府があった可能性のある場所から十数キロ西に離れています。丹波掾だった大江匡房が福住を訪れたとしたら、何か他に目的があったのかもしれませんが、今となっては知るよしも有りません。
福住の住吉神社の創建に大江匡房が関わっていたかどうかはともかく、山間のこの場所に住吉大神が勧進されたのは何故なのだろうとずっと気になっていました。神社の御由緒には、住吉大神の持つ水の神と和歌の神としての性格に期して勧進されたとありますが、大江匡房が丹波掾に任命された時代と神社創建の年代にずれがありますし、川が福住の町を流れているといっても小さな川で、それと住吉大神を結びつけるのには少々無理があるような気がしたからです。でも現にここに住吉大神の御分霊が勧進されています。しばらく地図を眺めていると、現在の丹波篠山市西側一帯に住吉神社が複数点在していることに気がつきました。福住にも通じている国道三七二号線沿線を中心に八社確認できます。調べてみると、このあたりは小野原荘といって平安時代以降住吉大社と東大寺の荘園が置かれており、両者で領地の取り合いもあったとわかりました。小野原荘に住吉神社が何社も造られたのは応仁の乱(一四六七~一四七七)以後のようですから、もしかすると福住の住吉神社もその流れの中で創建された一社なのかもしれません。
現在の住吉神社は、福住の集落に溶け込むように鎮座しています。お詣りを済ませ、拝殿の西に元は茅葺きだったと思われる書院があります。その入り口の竹垣は網干垣といって、浜で漁師が網を干す様子をイメージしているのだとか。
抽象化されたデザインですが、目を惹きます。
書院の南側と北側に庭があるのですが、北側の庭は昭和四十一年(一九六六)に昭和を代表する作庭家重森美玲によって造られた枯山水庭園があります。通常非公開ですが、塀越しに見えたので写真を撮らせていただきました。
「住之江の庭」と題されたこの庭は、白川砂の波紋で小波を、太い曲線で大波を表し、仙人が住む蓬莱島に船が向かう様子を青石によって表現しているのだそうです。
海神を御祭神としてお祀りしている住吉神社にちなんで造られた庭で、兵庫県の指定文化財になっています。
山間の静かな福住の町で、海を感じたひとときでした。