二年ほど前に、丹波篠山城について投稿しました。丹波篠山城は、兵庫県東部、篠山盆地の中央にある笹山に、慶長十四年(一六〇九)徳川家康の命で築かれた平山城で、山陰道の要衝にあることから、西国大名を牽制する役目を担いました。そこから東に十数キロ、丹波と京都を結ぶ篠山街道と大阪の能勢に通じる街道が交わる山間に福住という町があります。
篠山街道は現在の国道三七二号線ですが、この道は京都(畿内)と山陰諸国とを結ぶ古代山陰道に相当し、古代の福住には山陰道の駅馬として小野駅が置かれていました。能勢に通じる街道は国道一七三号線。能勢は大阪府の最北に位置する山間の町です。能勢も亀岡や京都に通じていますし、猪名川によって大阪湾とも結ばれています。またこの道を福住から北に行くと綾部に至ります。綾部まで行けば日本海側の舞鶴や宮津もそう遠くはありません。福住はこのように古くから要衝の地として往来のあったところで、平安から鎌倉時代にかけて丹波国に置かれた荘園が福住にもありました。戦国時代には丹波波多野氏が高城山に八上城を築き、波多野氏はここを本拠とし多紀郡一円の支配を強化しました。近世には宿場町として繁栄し、本陣や脇本陣も置かれています。
福住は篠山川の支流籾井川が形成した河岸段丘にあり、南北に山が迫っています。町は東西に細長く、川と並行するように街道が通り、宿場時代の面影を残す商家が続いています。福住の町並の魅力は商家の建ち並ぶ景観がいったん途切れると、農村集落の景観が現れるというように、商家の町並と農村の町並が共存しているところにあります。
十年程前に旧東海道を往復歩きましたが、旧東海道の宿場も、当時は農村と隣り合わせだったところが多かったと思いますので、きっと福住のような街道風景だったのかもしれません。
福住の街道沿いに建ち並ぶ家は、妻入りが多く見られます。こうした白漆喰に虫籠窓を持つ家が多いのも特徴です。
町の中心にある小学校にかつて本陣がありました。福住で本陣を務めたのは山田家で、福住の西に置かれた脇本陣も別の山田家が務めたそうです。
東に歩いていくと、道の両側に一里塚の碑を見つけました。
一里塚は一里(約三、九二七キロ)ごとに置かれた塚のこと。当初はここも土盛りの上に松や榎が植えられ、旅人の良い目印になっていたはずです。
瓦屋根のほか、こうした藁葺きの家も残っています。
町並が途切れると、こうした風景が現れます。
福住を訪ねたのは十月の上旬で、ちょうど黒枝豆収穫の最盛期でした。下の写真のように、一家総出で収穫した黒枝豆の葉を落とし、出荷に向け束ねる作業に追われている光景をあちらこちらで目にしました。もちろん採れたての黒枝豆を買って帰りましたが、豆の一つ一つが大きい上に甘みも強く、こんなに美味しい枝豆を食べたのは初めてで、黒枝豆を買いに来年も福住を訪れたいほどです。
街道沿いにはこうした曳山の蔵も。住吉神社の祭の際、五基の曳山が出るのだそうです。祭に曳山が出るようになったのは十八世紀の後半といいますから、その頃の福住の繁栄が偲ばれます。
このように、宿場町と農村集落の景観が融合した福住は、平成二十四年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
次回は祭で曳山が出るという住吉神社を取り上げる予定です。