前回は高槻市にある弥生時代の環濠集落遺跡「安満遺跡」について投稿しました。下の写真は、京都大学の実習農場時代の建物を活かし、公園として整備された環濠集落の中心部分ですが、そこから北に一キロほど、背後にあるなだらかな山の中腹に、古墳時代初期、三世紀後半の築造と考えられる古墳があります。今回はそちらに行ってみます。
山の名は安満山、古墳は安満宮山古墳と言います。新池埴輪製作遺跡のところでも触れたように、このあたりは三島地域と呼ばれ、北側には標高一五〇から七〇〇メートルほどの北摂山地が連なり、南側は平野、その間をつなぐように高槻丘陵や千里丘陵があるという地形です。安満山はその三島地域の東にあります。
桂川、宇治川、木津川の三川は合流し淀川となりますが、淀川になって間もない五キロほどは迫り来る山に挟まれた狭隘な平地を流れています。安満山は南にせり出した山地の先端にあります。その様子はこちらの航空写真からもおわかりいただけると思います。
安満宮山古墳は安満山の山頂から派生したいくつもの尾根のうち、南西方向に延びる尾根に築かれています。山の中腹、標高にして一二〇メートルほどの場所です。
安満山には横穴式石室を備えた古墳がいくつもあることが以前より知られていましたが、昭和四十四年(一九六九)山の南西に高槻市が公園墓地を開設するにあたり、第一期の墓地造成工事に先立ち調査が行われました。その際四十基以上の古墳の存在が明らかになり、工事区画の範囲内で円墳が五基発掘調査されたそうです。その後墓地造成をさらに拡張して進めることになり、平成九年安満山南西の尾根を調べたところ、木棺を収めた古墳が発見されました。それが安満宮山古墳で、木棺には青銅鏡や千六百点を超えるガラスの小玉、鉄製の刀や斧などが収められていました。周辺からは土器片も出土しています。(これらの出土品は一括して国の重要文化財に指定され、現在は今城塚古代歴史館で所蔵展示されています。)
墳丘の流出が激しく築造当時の様子はわかりませんが、墓坑は尾根と直角に東西方向に設けられていて、東西七、一メートル、南北三、六メートル、周りには排水溝が巡らされ、墓坑の中央部分に木棺が収められていました。木棺はほとんどが腐食しているも、棺の底に塗られていた朱が一部残っていました。わかりにくいかもしれませんが、下の写真の右、土が赤くなったところがそれです。
出土品の中で特筆すべきは、紀年銘鏡一面と三角縁神獣鏡二面を含む五面の青銅鏡です。一号鏡は三角縁吾作環状乳四神四獣鏡、二号鏡は「青龍三年」方格規矩四神鏡、三号鏡は三角縁獣文帯四神四獣鏡、四号鏡は斜縁吾作二神二獣鏡、五号鏡は平縁陳是作同向式神獣鏡で、いずれも割れた状態で見つかり、ほぼ完全に復元されました。
紀年銘鏡は銘文に年号が記されている鏡で、安満宮山古墳出土の紀年銘鏡には、魏の年号「青龍三年」が刻まれています。青龍三年は西暦二三五年で、これと同形のものが丹後半島の大田南五号墳からも見つかっています。年号がわかるものとしては日本最古だそうです。
三角縁神獣鏡は、古墳時代前期の近畿を中心とした古墳から出土する銅鏡です。『魏志倭人伝』に景初三年(二三九)六月倭国の外交使節団が邪馬台国を出発し、十二月に魏の都である洛陽に到着、女王卑弥呼に対し「親魏倭王」の金印と共に「銅鏡百枚」を与えたとある、その銅鏡百枚を三角縁神獣鏡とする説がありますが、三角縁神獣鏡は中国からは出土していませんし、日本での出土数が百枚を超えていることや、四世紀の古墳から出土している例が多いことなど、反論もあり、いまだ決着を見ていません。とはいえ、安満宮山古墳では、論争の絶えない三角縁神獣鏡が、青龍三年の銘が入った鏡と一緒に出土していますので、卑弥呼が送られたという銅鏡百枚の謎に一歩踏み込むことができそうです。
安満宮山古墳出土の銅鏡について調査したところ、一、二、三、五号鏡はいずれも魏鏡と考えられ、製作年代としては四号→二号→一号→五号→三号と考えられるそうです。二号鏡は青龍三年で二三五年ですので、それより早い四号鏡は二世紀後半から三世紀前半、一号鏡と五号鏡は二三九~二四〇年、三号鏡はそれより後とのこと。これらの一、二、五号鏡が年代的に卑弥呼が魏から送られたものの可能性があるということで、銅鏡百枚とは三角縁神獣鏡だけでなく、様々なタイプの鏡から成っていた可能性が出てきました。(高槻市文化財報告書)
つまり安満宮山古墳の被葬者は、卑弥呼と密接な関係を持っていたことになります。
冒頭、安満遺跡と安満山との位置関係について触れたように、安満山は安満遺跡の集落に暮らす人にとって常に目にする聖なる山でした。その山の中腹、集落を見下ろす尾根に埋葬された被葬者が安満遺跡の集落の首長だったであろうことは言を俟ちません。(写真下、横に長い広場が安満遺跡です。)
安満宮山古墳はこのように古墳時代初期の重要な古墳のため復元整備工事が行われ、発掘時の様子を再現しつつ墓坑は強化ガラスで保護されました。冒頭の写真に見えるのが墓坑を覆うガラスで、下のように墓坑を見ることができます。
この場所に立つと、安満遺跡や淀川はもちろんのこと、大阪平野を一望する眺望を得ることができます。正面には生駒山、実際には見えませんが生駒山のはるか奥には三輪山があります。卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳はその近くにあります。右、つまり西に目を向けると大阪湾、さらには六甲の山並も見えます。
古代は建物がない分、自然の地形が今以上にくっきりと視界に入ってきたことでしょう。目で捕らえることで、その距離はぐっと縮まるような気がします。
古代人のスケールの大きな感覚に浸りました。