先日投稿した大田神社は、賀茂別雷《かもわけいかづち》神社(通称上賀茂神社)の一の鳥居前の道を東に五百メートルほど行き、そこから少し北にあがったところに鎮座していますが、大田神社までの一帯は上賀茂神社の神官たちの屋敷が集まる社家町で、現在も往時の面影を残すお屋敷が残っています。
町を流れるのは明神川。上賀茂神社の境内で「ならの小川」(写真下)と呼ばれる清流が、神社を出ると明神川と名を変えるのです。明神川に沿って建ち並ぶお屋敷の敷地には、この川の水が引き込まれており、かつて神職たちはがその水で身を清めたそうです。
上賀茂神社の神事に携わるのは賀茂県主《かもあがたぬし》の末裔賀茂氏の一族と決められていますが、鎌倉時代の中頃から十六流に分かれ、その中でも位の高い神職に就いた家が賀茂七家と呼ばれました。賀茂七家は松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本で、明治時代まで神主、禰宜《ねぎ》、祝、権禰宜など九職を世襲で奉仕していました。明治になり世襲制が廃止されたのに伴い、ほとんどが神職を離れたそうです。
上賀茂神社の南に社家町が形成されたのは室町時代と言われています。江戸時代には百四十軒近くありましたが、現在は二十軒ほどとのこと。
家々は明神川沿いに土塀を巡らせ、石橋を渡って門をくぐるようになっています。上賀茂神社の鳥居より高くなってはいけないことから、どの家も高さを抑えて造られているため、通りからは家の姿を見ることができません。それがかえって奥ゆかしさをもたらし、清らかな水の流れと相まって落ち着いた景観になっています。
こちらは社家の錦織家の屋敷だったところで、後に西村氏の手に渡り、建物は明治に建て替えられています。庭園のみ錦織家時代からのものなので、現在の表示は西村家庭園となっています。庭園は平安時代後期に上賀茂神社の神主だった藤木重保によって造られたと伝わり、当時はこの場所で曲水の宴が行われたそうです。庭園は公開されているのですが、あいにくこの日は門が閉まっていました。
こちらは賀茂七家の中で唯一屋敷が現存している梅辻家です。主屋と書院から成っています。木造平屋の主屋が、高さを押さえて造られているのがおわかりいただけると思います。江戸の天保期ごろの建築とのこと。通常非公開ですが、京都の特別公開の際に見学できる機会があるようです。
こちらは井関家。井関家は賀茂十六流の一つに属していました。現在は匂い袋のお店になっています。写真を取り損ねたのですが、この辺りには珍しく主屋が三階建てになっています。これは明治になってからの増築。現在でも目につきます。
ところでしばらく道路脇を流れていた明神川は、この楠の巨木のところで南東にカーブして通りからはずれます。楠の根元には上賀茂神社末社の藤木社。祓い清めの女神・瀬織津姫命をお祀りしています。このお社によって、明神川の神聖さがより際立つように思えます。
そういえば北大路魯山人も上賀茂神社の社家の生まれです。大田神社前に魯山人生誕地の碑がありました。
上賀茂の社家町は国の伝統的建造物群保存地区に指定されています。