陶邑窯跡群は古墳時代日本列島に築かれた最古にして最大の須恵器の窯跡で、平安時代に衰退するまでおよそ五百年もの間陶邑で須恵器が生産されました。とくに初期段階は中央の権力の下で生産されたと考えられています。
陶邑というのは『日本書紀』の崇神天皇七年のところに出てくる「茅淳県陶邑」に由来するもので、泉北丘陵一帯に点在する窯跡群の総称です。堺市、和泉市、大阪狹山市にまたがる東西約十五キロ、南北約九キロの範囲が陶邑に相当しますが、堺市から和泉市にかけての丘陵地帯は高度成長期に泉北ニュータウン建設に伴い大規模に宅地開発されたため、六百から千基近くあったと言われる窯跡の大半が消滅しました。開発途中に発見された窯跡は四百基を超えるそうで、もちろん発見時にそれらは調査され地域ごとに報告書にまとめられていますし、出土品は資料館などで展示されてはいるものの、現地にかつてそこに窯が存在したことを示す表示がほとんどないというのは残念です。
泉北丘陵の窯跡は広大な範囲にわたりますので、尾根や谷から成る自然の地形をもとに、下のようにいくつかのエリアに分けられています。(地図は『泉北丘陵に拡がる須恵器窯』から撮らせていただきました。)須恵器の窯は穴窯といって斜面に溝を掘りドーム状の天井をかぶせた造りですから、丘陵という自然地形は須恵器窯には最適でしたし、何より山には粘土や薪の原料となる木が豊富にあります。また下地図からもわかるように丘陵地帯にはいくつもの川が流れていて、これらの川は須恵器の運搬のために重要な交通路の役目を果たしました。大阪湾に到着した渡来人が、湊からさほど遠くはない泉北丘陵が須恵器生産の適地とわかるまでそう時間は要しなかったのではないでしょうか。土師器から須恵器への移行期間は当然ありましたが、須恵器生産はかなり短期間のうちに広まったようです。
冒頭と下の写真は多治速比売神社の道路を挟んだ東にある高蔵寺七十三号です。上図でTK73とあるのがそれです。ここは高蔵寺地区の北端に位置しています。須恵器生産は初めは丘陵のとば口付近で行われ、次第に南の丘陵奥へと拡がっていきましたので、ここはまさに初期段階の窯跡になります。かなり急な勾配の斜面を上がっていったところに、下のように穴窯の前庭部と焚口部分が保存されています。このさらに奥にはもう一つ七十四号とされる窯があるようですが、これ以上奥には行けず確認できませんでした。
下は神社向かいの窯(TK73)と、その少し北(TK87)から出土した須恵器で、陶邑窯跡群の中でも最古様式のものです。これぞまさに用の美。洗練された美しい形に目を瞠ります。(写真は『陶邑・窯・須恵器』から撮らせていただきました。)
開発前は多治速比売神社と窯跡の間に道路などはなく、神社の境内地だったところですので、かつては神社境内でも須恵器の破片が転がっていたのでしょう。宮司さんが見せてくださった十センチ四方ほどの須恵器の破片の表にはたたき板の跡が、裏にはあて具の跡が残っていて、五世紀の工人の存在をより身近に感じることができました。
須恵器は硬質で水持ちがよかったので、当時の暮らしを一変させました。須恵器が伝わって間もない頃は、半島で作られていたものによく似た把手付きの椀や樽形の土器などが作られていましたが、次第に列島の用途に応じ共膳用の杯や高杯、壺などが作られるようになりました。また各地に小規模な古墳が造られるようになった六世紀中頃には、須恵器は古墳の副葬品にも用いられるようになり大量に必要となったため、以前より工程が簡略化され、土器の形も簡素になったようです。さらに時代が下ると、須恵器は宮廷ばかりか寺院へも供給されるようになり、これまで作られることのなかった水瓶や盤なども制作されました。写真下は狭山池畔で出土した六世紀から七世紀頃の須恵器です。神社で見せていただいた破片とは違い、こちらはきれいに整えられた完成品ですが、こうして実物を見ると薄手で肌理が細かく、完成度の高さに改めて目を奪われました。ちなみに後列右に見える頭でっかちで下に孔の開いた容器は𤭯《はそう》といって、孔に竹の管を差し込んだり、木製の栓をするなどして祭祀に用いられた容器だそうです。
高蔵寺七十三号窯から南東に一キロ半ほどのところにある大蓮公園にも、窯跡があります。こちらは高蔵寺地区の西隣の栂地区で、公園内にある窯跡は栂六十一号です。
これは栂地区の南部にあった七世紀初め頃の窯跡で、陶邑の窯の中でも最大規模だそうです。保存状態が良かったので現在地に移築し、復元保存したものだとか。開発のために、発見場所でそのまま保存できなかったということでしょうか。消滅するよりはいいですが、コンクリートで固められた窯は息苦しそうに見えなくもありません。
堺市によると、堺市内の窯跡のうち、現地でその痕跡を見ることができるのは、ここにあげた二箇所だけなのだそうです。陶邑窯跡群は堺市に隣接する和泉市、大阪狹山市にまたがっています。和泉市と大阪狹山市の状況はわかりませんが、おそらく似たり寄ったりでしょう。多治速比売神社で須恵器の破片を見せていただき、実際それに触れたとき、ここは古墳時代盛んに須恵器が生産された土地なのだなということが、頭ではなく体で実感できました。現地で歴史の痕跡に触れる意義はそこにあるはずで、既に消滅してしまったものを今更取り戻すことはできないまでも、せめてここが古墳時代須恵器窯があった場所で、ここからはこのようなものが作られていたのだとわかる案内がほしいものです。窯跡が現存しないなら、なおさら現地にその痕跡を示すものを作らないと、ますます記憶から遠ざかってしまうような気がします。土地の歴史はそこに現在暮らす人と共にあってこそのもので、歴史を知ることで日々暮らしている土地への愛着も増す、というのが私自身の経験も踏まえた実感で、専門家だけがわかっていれば良いというものではないのではないでしょうか。
大蓮公園内には以前泉北すえむら資料館(旧大阪府立泉北考古資料館)があり、出土品などが展示されていたのですが、二〇一〇年に閉館してしまい、現在はカフェと小さな私設図書館になっています。車を走らせていると、「泉北すえむら資料館」を示す道路標示が目に入り、公園に到着するやいそいそとそちらを目指したら、そこはカフェになっていた、というわけで、吸い込まれそうなほどきれいな青空の下、白く照り映える建物がうらめしく思えたものです。