古社寺風景

多治速比売神社

前回投稿した荒山こうぜん公園は、泉北ニュータウン開発の際、多治速比売たじはやひめ神社の社有地の一部が買い取られ作られた公園です。『式内社調査報告第五巻』によると、多治速比売神社の往時の境内地は二千四百二十五坪で、山林も十町歩擁していたといいますから、かなり規模の大きな神社だったことがわかります。

泉北丘陵は南から北に向かってなだらかに下降する南高北低の地形で、開発の際にはそうした自然の起伏を残しつつもかなりの部分が平坦地に改変されました。千里丘陵開発の教訓から、開発地域を三つの丘陵に絞り既に民家の多かった地域は除いたとのことですが、それでもかつての泉北丘陵を知っている人はその激変ぶりに驚愕しているそうです。多治速比売神社も当初なくしてしまう計画だったそうですから、残っただけよかったということでしょうか。

多治速比売神社は、泉北丘陵の北の、丘陵のとば口に鎮座しています。すぐ西には石津川。古代の重要な湊石津に通じ、川を下ると七キロほどで上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵に治定)や大山古墳(仁徳天皇陵に治定)があるという位置関係です。俗称は荒山宮こうぜんのみや、「こうぜんさん」と呼ばれることもあるそうです。この荒山は公園の名前として残っていますが、明治初年このあたりは和泉國大鳥郡和田村字荒山だったように、地名もかつては荒山でした。ちなみに神社に残されている永正十五年(一五一八)の縁起は『高山記』といいますから、荒山も元は高山だったかもしれません。実際神社は山の上にあり、公園西側の鳥居から東の境内に至る表参道は下の写真のように長く急な階段になっています。

 

かつての丘陵の名残を思わせる樹木に覆われた石段を上ると、平坦で明るい境内が現れます。本来は鬱蒼とした社叢に囲われていたはずですが、これも丘陵開発の影響を受けたためなのでしょう。初春の陽差しが燦々と降り注ぎ、朱色の社殿がまぶしいほどですが、それがかえって女神をお祀りする神社らしい華やぎを増しているようにも思えます。

神社でいただいた案内記によると、多治速比売神社は古墳時代中期、五百八十年頃の創建とのことです。

それはさておき、社名にも冠されている御祭神の多治速比売がどのような女神なのかが気になり、ここ数日多治速比売のことばかり考えているのですが、いまだこれといった答えは見つかっていません。ですがその名前から様々なことを類推していくと、五世紀から六世紀にかけての泉北丘陵とその周辺の歴史がおぼろげながら見えてくるような気がしています。思考過程の一つであることをお断りし、多治速比売の時代に少しばかり足を踏み入れてみることにします。

多治速比売という名前からすぐに思くのは丹比たじひです。平安時代の『和名類聚抄わみょうるいじゅしょう』に、当時河内国に丹比郡たじひのこおりというのがあったと記されています。現在の堺市東区、美原区、大阪狹山市、松原市の全域と、大阪市東住吉区、平野区、藤井寺市、羽曳野市、八尾市の一部に相当します。南東から南にかけては丘陵ですが多くは平野で、そうした平野部は丹比野と呼ばれていました。(神社が鎮座しているのは丹比郡の西隣、『和名類聚抄』で和泉国大鳥郡となっている地域ですが、河内国から和泉国が分立したのは八世紀ですから、神社がそれ以前の創建ならば神社も河内国に属していたことになります。)

その丹比という地名は記紀にも出てきます。『日本書紀』には仁徳天皇十四年に「大道を京の中に作る。南の門より直に指して、丹比邑に至る。」とありますし、『古事記』履中天皇の段には、難波宮に火をつけられた履中天皇が「多遅比野」を通って「波邇賦坂はにふざか」を超え大和に逃げた話が書かれているように、時代の整合性はともかくとして古代難波と大和を結ぶ道が丹比野にあったということで、それが推古朝の時代に整備され丹比道となりました。丹比野を通るので丹比道、これが江戸時代になって竹内街道と呼ばれるようになっています。

この丹比道が古墳時代、初期ヤマト王権にとって大変重要な交通路でした。大和川も交通路として重要でしたが長くなりますのでここでは陸路に限りますが、ヤマト王権の外港があった大阪湾と奈良盆地を結ぶ道として、北から磯歯津道、大津道、丹比道があり、それぞれ住吉津、大津(堺)、石津に直結し、東アジアからの先進技術や情報などがこれらの道を通り大和に向かいました。河内(和泉)の国は、列島に到着したばかりの最新の技術や情報に真っ先に触れることのできる土地で、丹比は言ってみればその中心に位置していたのです。丹比道がヤマト王権にとって重要だったことは、丹比道に沿うように五世紀から六世紀にかけての百舌鳥・古市古墳群が築かれていることからもわかります。

丹比野を開発し勢力基盤を確立したのが丹比氏でした。丹比氏には丹比連たじひのむらじ丹比公たじひのきみの二つの系統があり、時代が異なります。

丹比連は第十八代反正天皇(仁徳天皇の第三皇子)の名代なしろ(直属の奉仕集団)である丹比部を管理したと伝わります。『日本書紀』によると反正天皇の和風諡号は多遲比瑞歯別天皇たじひのみつはわけのすめらみことですが、これは誕生の際産湯に多遅の花が入ったことに由来するためです。多遅の花とは虎杖いたどりのことです。その際奉仕したとされるのが丹比宿禰色鳴たじひのすくねしこめで、丹比氏の祖とされています。『新撰姓氏録』によると火明命ほあかりのみことの三世孫の天忍男命あめのおしおみのみことの後裔に当たる神別氏族です。

多治速比売神社の北東九キロほどのところに、黒姫山古墳という古墳時代中期、五世紀中頃の築造とされる前方後円墳があります。丹比道から南に一キロほど、古市古墳群と百舌鳥古墳群のちょうど中間あたりになりますが、この古墳の被葬者は丹比氏と考えられています。黒姫山古墳からは大量の鉄製甲冑が出土していて、その数は列島一といいますから、丹比氏の当時の勢力がうかがえます。実際丹比氏は大王家に次ぐナンバー2、側近のような立場にあり、軍事的役割も担っていたのでしょう。重要な交通路である丹比道を擁する地理も丹比氏の力を後押ししたはずです。(黒姫山古墳は古市・百舌鳥古墳群のような知名度はありませんが、五世紀の歴史を考える上で大変重要な古墳ですので、機会を改め投稿したいと思っています。)

このように五世紀に丹比氏によって開発された丹比野は、時代が下っても飛鳥と難波を結ぶ中間地帯、要衝の地として有力氏族が活動しました。そこで六世紀に登場するのが、丹比公の系統の丹比氏です。丹比公は第二十八代宣化天皇の皇子・上殖葉皇子かみつうえはのみこ始祖とする皇別氏族で、宣化天皇三世孫は多治比古王と名付けられ、後に多治比公のかばねを賜ったといいます。ちなみにその子の多治比嶋は、持統朝において最高位の姓である真人まひとを賜っています。余談ですが竹取物語に出てくる石作皇子は嶋がモデルと言われています。宣化天皇三世孫の多治比古王誕生の際にも多治比の花が沐浴の釜に入ったと『日本三代実録』に記されていますので、多治比古王の母か乳母が丹比連の出だったのかもしれません。ちなみに五世紀からの丹比連系統の丹比氏も、六世紀に新たに登場した丹比公系列の丹比氏も、どちらも丹比氏、多治比氏と書かれますが、頻度からいうと前者に丹比氏、後者に多治比氏を用いることが多いようです。

丹比と丹比氏、あるいは多治比氏のことで紙面を費やしてきましたが、多治速比売神社は多治比氏によって創建された神社なのでしょう。神社の案内記にあるように五百八十年頃の創建だとすれば、それは多治比古王の時代になります。御祭神の多治速比売命については様々な説がありますが、多治比氏に関係する女性であることは間違いなく、宮司さんは多治比古王の妻ではないかとおっしゃっていました。そうだとすると創建は一代後の嶋の時代、七世紀としたほうがよさそうです。他方で創建時期を神社のいう五百八十年頃とするなら、多治比古王が始祖をお祀りしたと考えるのが自然な流れのように思いますので、御祭神は上殖葉皇子の妻ではないかと。黒姫山古墳の近くに丹比神社という式内社があり、現在の御祭神は丹比連の祖である火明命と反正天皇ですが、かつては上殖葉皇子もお祀りされていたようです。これはおそらく六世紀以降丹比公の時代に自身の祖神を追加でお祀りしたものでしょう。つまり、それほど離れていない場所に上殖葉皇子をお祀りする神社がありますので、当地にその妻がお祀りされても不思議はないのはということです。いずれにせよ史料がありませんので、このあたりは想像でしかなくなってしまうのですが、二つの可能性をあげておきます

ではなぜこの場所だったのかということですが、それは多治速比売神社が鎮座する場所を含めた泉北丘陵一帯が、五世紀後半から十世紀半ば頃までの大規模な須恵器生産地として知られる陶邑すえむら窯跡群を擁する重要な地域だったことと無関係ではないでしょう。

須恵器生産は初期段階では丘陵の入り口付近で行われ、次第に南の丘陵奥深くに拡がっていったと考えられています。丘陵のとば口に鎮座する多治速比売神社は、まさに初期の須恵器生産が行われた地域で、実際神社のすぐ東で窯跡が見つかっています。また神社の西に石津川が流れていますが、石津川沿いには須恵器を集め選別し、川の流れを利用して運搬するための施設がありました。(深田遺跡)西向きの神社が見下ろす先にあるのは、須恵器の集積・運搬拠点でした。もし神社が六世紀から七世紀の創建だとすると、その頃泉北丘陵では各地で造られる群集墳への供給に向け須恵器生産も勢いを増し、各地に流通させるための拠点も本格化していた頃ですから、須恵器生産の要の場所に女神をお祀りしたのは意味があったように思います。

最後に社殿のことを。

多治速比売神社に入るとまず朱色の拝殿が目に飛び込んできますが、実はその奥にある本殿が千鳥破風と唐破風を持つ入母屋造りの朱色の華麗な建物で、国の重要文化財に指定されています。

解体修理の際に発見された棟札から室町時代の天文八年(一五三九)から十二年(一五四三)の間に建てられたことがわかったそうです。本殿としては小ぶりですが、少し距離を取って見ると、反り返った屋根が美しく、空に向かって羽ばたこうとしているような軽やかさを感じ、近寄ると蟇股や斗栱などの鮮やかな装飾に目を奪われます。

 

特に珍しいのが、芭蕉の葉に蟷螂がいる下のデザインだそうです。

 

このような華やかな造形美を誇る社殿は、河内や和泉にいくつか見られますので、機会を改めそちらも取り上げてみたいと思っていますが、しばらくの間は泉北丘陵と丹比野周辺を巡りますので、よろしければまたおつきあいください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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