古墳時代の中期後半から後期にかけて(五世紀中頃から六世紀ごろ)千里丘陵に築かれた大規模な須恵器窯の中で、豊中市に残る桜井谷窯跡群について先日投稿しました。これは規模の点からみても、一地方の須恵器生産というより中央の政治動向に関連した国家的なものだったと考えられています。
今回はそこからの流れで、同時代に豊中に築かれた桜塚古墳群のことを。
桜塚古墳群があるのは、大阪府北部の豊中台地の中央部、桜井谷窯跡群のある千里丘陵よりは五キロほど南の阪急岡町駅周辺で、三キロほど西には猪名川が流れています。(猪名川より東には支流の千里川も。)現在そこは豊中市ではないこともあって豊中台地を猪名川流域と捉える感覚は現代人にはほとんどないのですが、古代においては豊中もれっきとした猪名川流域ですから、以前二度にわたり投稿した池田の古墳群と今回の豊中の桜塚古墳群は、同じエリアの話として捉えたほうがよさそうです。
さてその豊中台地にも、古墳時代前期後半から後期初頭までの間に、多くの古墳が築かれました。明治時代三度にわたって行われた調査を元に作られた絵図によると三十六基が確認でき、北摂における最大規模の古墳群が豊中に築かれていたことがわかりましたが、現在はわずかに五基しか残っていません。世界遺産に登録された古市・百舌鳥古墳群には規模や数の点で及ばずとも、北摂にもこれだけの古墳群があったということは、当時豊中が相当な勢力を持つ地域だったということですから、古墳の大半が失われてしまったのは残念なことです。奈良や京都は歴史的に重要な土地という認識が古くからありますので、埋蔵遺跡も大切にされていますが、私の知る限りどうも大阪はその辺が奈良や京都に比べてなおざりの傾向が否めないように思います。
豊中に築かれた古墳群は、岡町駅の西に築かれた西群、駅東側の原田神社近くに築かれた中央群、さらに東の豊中警察周辺に築かれた東群、南に下って曽根駅北東に築かれた南群の四つに分けられ、全体を桜塚古墳群と呼んでいます。桜塚は岡町駅東の地名にも残っていますが、原田神社近くにある桜塚碑によると、当地には応神朝から平安初期まで多くの古墳があり、それらは倭人、帰化人を問わず国家に功労のあった人たちのものなので、桜を植えて墳墓を飾り桜塚と称したとのことです。
この桜塚碑のある辺りが中央群で、荒神塚古墳と桜塚古墳という二つの円墳がありましたが、現在そこは商店街で古墳は見る影もありません。ちなみに荒神塚古墳は直径三十メートル、桜塚古墳は直径十メートルほどだったようです。
桜塚古墳群で最も規模が大きかったのは西群で、前方後円墳四基、円墳十六基で構成されていたことがわかっています。そこに大石塚古墳と小石塚古墳という二基の前方後円墳が現存しています。
阪急の線路のすぐ東に鎮座している原田神社は、摂津国中西部の七十二村の産土神で社域も広大でした。大石塚古墳と小石塚古墳はその原田神社の所領内にあったことから守られたそうです。どちらも国の史跡に指定されています。(原田神社からは銅鐸が出土しています。歴史ある神社なので、機会を改め投稿したいと思っています。)
大石塚古墳のすぐ北に小石塚古墳があり、両者は前方部を南に向け、同じ南北軸上に造られています。下の写真は小石塚古墳から大石塚古墳を見たもの。丸く盛り上がった部分が大石塚古墳の後円部になります。冒頭の写真も大石塚古墳の後円部です。
柵からは前方部が見えないので全体の大きさがつかみにくいのですが、全長は八十~九十メートル、後円部の直径は四十八メートル、高さ六メートル、前方部は幅約三十メートル、高さが二、八メートルで、三段構成の墳丘斜面は葺石で覆われ、墳丘の平坦部には円筒埴輪や朝顔形埴輪が置かれていました。朝顔形の埴輪は復元すると高さが一、二メートルにもなる大きなものだったそうです。出土品などから大石塚古墳は四世紀中頃、古墳時代前期後半に造られたとみられ、桜塚古墳群の中では最古です。
大石塚古墳から北を見ると、小石塚古墳があります。両古墳はこのように近接して築かれています。
小石塚古墳は全長四十九メートル、後円部の直径が二十九メートル、高さ三メートル、前方部の幅が二十一メートル、高さ一、五メートルで、大石塚古墳より一回り小さい古墳です。葺石は用いられていませんが埴輪は置かれており、墳丘上から円筒埴輪、朝顔形埴輪、壺型埴輪が出土しています。下の写真は小石塚古墳の前方部で、ここからは後円部は見えませんが、後円部墳頂から木棺を納める粘土槨が確認されたそうです。大石塚古墳に続く四世紀後半の古墳と考えられますが、この地域ではそれ以後の古墳は確認されていません。
大石塚古墳と小石塚古墳が築かれたのは古墳時代の前期(後半)で、池田では池田茶臼山古墳と娯三堂古墳が同じ時代のものですし、猪名川流域ということでは兵庫県伊丹市の伊丹台地に造られた上臈塚古墳や池田山古墳、兵庫県宝塚市の長尾山丘陵に造られた長尾山古墳や万籟山古墳、大阪府豊中市の待兼山丘陵に造られた待兼山古墳や御神山古墳があります。これらの古墳は多少の差はあるものの同程度の大きさですので、猪名川流域全体に影響力を持つ大きな勢力があったというよりは、それぞれの地域を統轄する勢力が併存していた当時の状況を教えてくれます。
古墳時代前期にはこのように猪名川流域各地に古墳の築造が見られましたが、中期に入ると古墳を築く勢力は、猪名川の東の豊中台地と、西の伊丹台地の二カ所に集約されます。
豊中台地の桜塚古墳群では、古墳時代中期になると少し東に移動しています。東群に分類される古墳群がそれですので、次回はそちらへ。
余談ですが、大石塚古墳に隣接して伝統芸能館という建物があります。古墳の隣に伝統芸能館?と思いながらも、伝統芸能館というからには伝統芸能に関する施設なのだと思い中に入らずに帰ってきましたが(伝統芸能館というのは「伝統的な古典芸能や落語や漫才、紙芝居など、庶民の娯楽として育み親しまれてきた大衆芸能に携わる個人及びグループへのホール利用貸出」をしている施設ということでした)、後からわかったことに、建物内に大石塚古墳から出土した埴輪が展示されているのだそうです。せめて出土品が展示されていることが外からでもわかるようになっているとよかったですし、さらに言わせていただくと、こここそ歴史資料館であってほしかったと思います。大石塚古墳と小石塚古墳は国の史跡に指定されていますし、東に残る古墳群も徒歩圏内で、それぞれ歴史的に大変価値のある出土品があります(詳しくは次回)。さらに豊中には古墳ばかりか桜井谷古窯跡群からの出土品も多くあります。現時点でこうした出土品をまとめて展示する施設が豊中にないのが残念でなりません。(曽根の芸術文化センターにも若干の展示スペースがありますが、ホール会場にそのような展示があるとはつゆ知らず、実際ほとんど知られていないでしょう。)以前当ブログでも取り上げた心合寺山古墳では、隣接地に「しおんじやま古墳学習館」という施設がありました。多くの人が関心を持つ施設ではないでしょうが、発掘品や周辺の古墳について説明展示がされていたので古墳への理解も深まりましたし、心合寺山古墳はもちろん地域の歴史に対する誇りが感じられ、その土地への愛着を私も共有できたものです。