例年ですと二月三日が節分ですが、今年の節分は二日でした。二月二日に節分というのは百二十四年ぶりだそうです。よって三日は立春。暦の上での話とはいえ、待ちわびている春が一日早く訪れてくれるのは、嬉しいものです。
節分は季節の変わり目に邪気を払う大切な行事ですが、今年は新型コロナの影響で、どこも行事が縮小されたり中止になったりで、いつもとはだいぶ様子が違いました。節分祭発祥の地とされる京都の吉田神社でも、追儺式(鬼やらい)や火炉祭が中止になりました。追儺式では赤、青、黄の鬼の登場で大いに盛り上がるだけに、これがないのは寂しい感じがしますが、節分前日の朝、災いをもたらす疫神が荒ぶることなく鎮まるよう、門外に向かって祈り、神酒洗米を撒く疫神祭は無事に執り行われましたので、いま私たちを悩ませている厄が去ってくれることを願うばかりです。
その疫神祭が行われるのは、境内の南、吉田山の山頂付近(神楽岡)にある大元宮です。正式には斎場所大元宮といいます。室町時代の吉田神道創設者である吉田兼倶が、虚無太元尊神を祀る斎場として造った大元宮で、言ってみれば神道の総本山、天神地祇八百万神がお祀りされています。全国にあるすべての式内社ばかりか伊勢の内宮外宮がお祀りされていることから、ここにお詣りすれば全国の神社にお詣りしたのと同じご利益があるというので、とくに江戸時代以降は多くの庶民の信仰を集めた場所です。元は吉田兼倶の自邸にありましたが、文明十六年(一四八四)現在地に遷されています。
大元宮は、通常は中門からのお詣りになりますが、お正月と毎月一日、そして節分の時だけ、中に入ってお詣りすることができます。
吉田神社のある吉田山は、古くから信仰対象とされ神楽岡と呼ばれてきましたが、平安京遷都後は都の東北にあることから鬼門封じの場所とされました。貞観元年(八五九)神楽岡に自邸のあった藤原山陰が、藤原氏の氏神である奈良春日大社の四坐を勧進したのが神社の始まりで、藤原氏の氏神として、また平安京の鎮守として信仰されてきたところ、鎌倉時代以後卜部氏が神職を受け継ぐことになり、その後の吉田神道の興りに繋がっていきました。(吉田兼倶は卜部兼名の息子、兼倶が吉田家を興しています。)
吉田神道は神を最高に位置づけ仏教、儒教、道鏡などは神に従うものであるとする(反本地垂迹説)唯一神道で、実際には仏教、儒教、道教や、陰陽道などが習合しています。大元宮の中門をくぐると正面に朱色の千木が印象的な本堂があります。下の写真ではわかりにくいですが、本堂は八角形をしています。八角形という形から道教の影響が感じられますし、虚無太元尊神をお祀りする大元宮も同様です。
節分前日の朝、この本堂前で疫神祭が行われました。本堂前に立つ白っぽい棒のようなものが、厄神を封じ込める厄塚です。藁を柱状に編み上げ、上に薄が三束、柱は注連縄で本殿と繋がっています。塚に手を触れることで、厄神や心の鬼を封じ込め、さらに塚から延びている注連縄を通じ本殿の神様と繋がることができることから、一年間健康で過ごせるということですが、今年は塚に手を触れることは禁止されていました。
例年人でごった返している境内も、今年は人が少なく、ゆっくりお詣りすることができましたので、良いこともあったということで。
人が少ないということでは、節分時期大元宮と本殿の間の坂の参道には多くの露店が出て、ラッシュ時の山手線のような状態になりますが、今年はご覧の通りでした。
ちなみにこちらが本殿です。
お塚に手を触れることはできませんでしたが、節分時期だけ授与される疫神斎の神符はいただいてきました。
右がその疫神斎の神符です。(新しいお札は玄関に貼ってしまったので、上の写真は古いものです。)後水尾天皇の御宸筆。梔色は魔除けの力があるということから、他のお札も梔色です。
お札を新しくできたことで、気分も改まります。
梅が一輪また一輪とほころび始め、少しずつ季節は春に向かっています。希望の持てる春が訪れますように。