前回に続き池田の古墳のことを。
古墳時代中期の五世紀に入ると、池田では古墳が造られなくなりました。池田に代わり、中期の古墳が見られるのは豊中と伊丹、どちらも猪名川流域に相当する地域です。古墳時代中期は百舌鳥や古市に巨大古墳が生まれた倭の五王時代ですが、猪名川流域でも勢力の移り変わりがあったということでしょう。池田の古墳が再び造られるようになるのは古墳時代の後期です。その一つが六世紀前半のものと思われる二子塚古墳で、猪名川流域では最後の前方後円墳です。
二子塚古墳があるのは、池田茶臼山古墳の南東およそ一キロ半の池田市井口堂で、すぐ南には猪名川の支流の箕面川が流れています。全長は四十五メートル、墳丘上に稲荷神社があるので稲荷山古墳とも呼ばれています。
そのお稲荷さんの脇、鉄柵で囲われた中に石室が露出していますが、二子塚古墳の石室は横穴式で、後円部だけでなく前方部にもあるそうですから、複数の首長のためのものだったのでしょうか。
二子塚古墳から北西に一キロほどの五社神社境内にも、古墳時代後期、六世紀末から七世紀初め頃の鉢塚古墳があります。五所神社は奈良時代に行基によって開かれた若王寺《にゃくおうじ》(釈迦院)の鎮守として創建されたと伝わります。
古墳は直径およそ四十五メートルと大きく、円墳と推測されるそうです。埋葬のための巨石の横穴式石室は全長十四、八メートル、玄室は長さ約六、四八メートル、高さ約五、二メートル、幅約三、二メートルもあり、全国的にも屈指の規模ですし、大阪府では最大とのことです。ちなみにほぼ同時代に造られた明日香の石舞台古墳は、全長が十九、一メートル、玄室は長さ約七、七メートル、高さ約四、七メートル、幅約三、五メートルですから、鉢塚古墳とそれほど変わらず、むしろ玄室の高さは鉢塚古墳の方が大きいことがわかります。
古墳は神社の奥の院としてお祀りされています。神社へのお詣りを済ませ、拝殿の後ろに回り込むと、覆屋に覆われた中にその石室はありました。鉢塚古墳は石舞台のように巨石がすべて剥き出しになっていませんし、羨道に入り玄室に近づくことができませんので、実際の大きさを実感しにくいのですが、巨石を積み重ねて造られた石室には圧倒され、被葬者の力の大きさを見せつけられる思いがします。撮影禁止のため写真はありませんが、五社神社ではこの石室を神聖な信仰の場として守っていて、入り口には蝋燭やお花が供えられ、とても厳粛な雰囲気です。怖いと感じる方もいるでしょうが、私はむしろ被葬者への敬意が感じられ自然と手を合わせました。近年の市長の銅像を置く池田茶臼山古墳とは何という違いでしょう。
鉢塚古墳で驚いたのは規模だけではありません。この巨大な玄室には室町時代の石造十三重の塔がお祀りされているのです。かつて古墳のあった場所に神社やお寺がある例はこれまでいくつも見てきましたが、石室の中に石塔をお祀りしているのは初めて見ました。鉢塚古墳は盗掘に遭っていますので、空洞の石室に塔をお祀りしたということでしょうか。現代人と室町時代の人とでは、古墳が造られた六世紀後半という時代に対する時間の感覚はかなり異なり、たとえ盗掘されていたとしても今以上に古墳には埋葬者の気配が残っていたのではという気がするだけに、十三重の石塔を造りお祀りしたのはどのような人だったのだろうと、そちらにも関心が及びます。ちなみに十三重の塔は国の重要文化財に指定されています。
五社神社を鎮守とした若王寺(釈迦院)は正式には鉢多羅山若王寺釈迦院といい、社伝によると神功皇后が百済から凱旋した際持ってきた仏舎利多羅宝鉢が散逸しないよう鉢塚(石窟)に納めたのを、奈良時代に行基が夢のお告げで掘り出し、寺を建ててお祀りしたことに始まります。この社伝にある鉢を埋めた鉢塚(石窟)が、この鉢塚古墳ではないかという説もあるそうで、そうだとすると釈迦院にとって鉢塚古墳は創建の起源に関わる特別な場所ということになります。釈迦院の歴史を繙けば、鉢塚古墳の十三重の石塔についても何かわかるでしょうか。釈迦院については機会を改め投稿しますが、新しくも立派な境内でしたので今回は写真を一枚だけ。
前回投稿した池田茶臼山古墳の南東およそ三百メートルの五月丘にも、五月ヶ丘古墳という七世紀古墳時代後期の円墳があります。場所は図書館や歴史民俗資料館のある五月丘緑地の中腹ですが、緑地の南には先日投稿した呉服神社でも触れたように、秦氏に縁のある呉服神社があります。
現在の地名は五月丘ですが、かつてこの辺りは豊島郡秦野村でした。昔の地名にはしっかり秦氏の存在が刻まれていたのですが…。ちなみに五月丘の東に、現在畑という地名があります。これは字こそ違えど秦氏の存在を伝える地名です。
階段を上がると小さな祠が一つ。同じ呉服神社でも先日投稿した室町にある呉服神社とは佇まいがまるで違います。
祠の後ろの山には五月ヶ丘古墳があります。これが五月丘の小さな呉服神社の祈りの原点です。
五月ヶ丘古墳が確認されたのは昭和三十年。当時この辺りは柿畑で、農作業中に石室などが発見されたそうです。本格的な調査が行われたのは昭和四十八年で、それにより五月ヶ丘古墳は直径約八メートルの小規模な円墳で、長さ三、四五メートルほどの横穴式石室が設けられていたことがわかりましたが、わずかな側壁を残し羨道に至るまで欠失していたため昭和五十四年に石室が復元されました。
五月ヶ丘古墳で特筆すべきは、石室から陶棺の破片が出土したことです。陶棺は字のごとく粘土で作られた棺で、これまで見つかっているのは畿内と岡山県に限られています。
復元模型がすぐ近くにある歴史資料館に展示されているものの、あいにく長期休館中で見ることが叶いませんでしたが、調査報告書の写真によると長さは百九十五センチ、幅四十六センチ、高さ四十六センチで、棺の下に円筒形の脚が二列に合計十六本付いています。上の写真のレプリカでもわかるように、色は淡い灰色、須恵質の陶棺です。ちなみにここからは須恵器の杯も出土しています。
陶棺は現在畿内では百八十ほどが確認されていて、そのうち六分の一ほどに当たる二十九の陶棺が池田に隣接する豊中で見つかっています。陶棺には須恵質のものと土師質のものがありますが、豊中で見つかったものはほとんどが須恵質で、その多くが太鼓塚古墳群(現在の豊中市永楽荘周辺)で出土しています。そこは、古代において我が国最大の生産規模を誇っていた陶邑《すえむら》古窯跡群(大阪の堺周辺)に次ぐ千里古窯跡群があり、猪名川の支流の千里川がすぐ東に流れているという場所です。千里古窯跡群は吹田から豊中にかけての丘陵に広く拡がる窯跡ですが、その中の桜井谷窯跡群がまさに豊中市永楽荘から宮山町にかけてで、桜井谷では陶棺が多く作られていたといいますから、太鼓塚古墳で発見された多数の恵質の陶棺も当然そこで焼かれたものでしょう。
池田で見つかった陶棺は五月ヶ丘古墳が唯一ですが、桜井谷から三キロほどしか離れていませんので、五月ヶ丘古墳の陶棺もそこで作られた可能性がありそうです。須恵器は古墳時代に朝鮮半島からの渡来人によって伝えられたと言われています。前回取り上げた古墳時代前期の古墳のあと、池田ではしばらくの空白期間があり、後期になって再び古墳が造られるようになりました。それが今回取り上げた三つの古墳ですが、これらは前期古墳の被葬者とは別の新しい勢力の存在を教えてくれます。新しい勢力とは秦氏でしょう。
この間秦氏のことを少し考えたり調べたりしていて、最澄、空海、泰澄といった仏教者や、妙見信仰、愛宕信仰、太子信仰、稲荷信仰、八幡信仰といった古来からの信仰、過去にこのブログで取り上げたいくつかの古社寺など、直感的に惹かれ関心を抱いてきたことが秦氏に繋がっていくようだということに気づかされたところです。日本の歴史において縁の下の力持ち的な存在の秦氏には、今後の取材でもたびたび出会うことになりそうです。