古社寺風景

為那都比古神社

昨年末に訪ねた箕面の如意谷にある医王岩は古代の磐座信仰を伝えるもので、そのすぐ近くにある大宮寺のお堂付近に摂津国の式内社、為那都比古いなつひこ神社が鎮座していましたが、神社は明治四十年に萱野村の産土神十社を合祀し、八百メートルほど東に遷っています。昔と同じ社名でも当初の為那都比古神社ではなく、近年新しく生まれ変わった為那都比古神社ですが、昨年末如意谷に行って以来、初詣はここと決めていました。

 

 

境内中程には、八代将軍吉宗が奉献したという社号碑が。医王岩の近くに鎮座していた時代を知る唯一の遺跡です。現在境内には杜と呼べるほどの樹木はありませんが、明治四十年当地に遷ってきた頃は、周辺も含め豊かな自然が残っていたでしょう。三が日を過ぎていたこともあって参拝者も少なく、ゆっくりお詣りできました。お願いすることはいつも同じ。何よりまず家族の健康、次に心願成就です。

 

ところで前々から為那都比古の為那が気になっていました。備前国一宮は吉備津彦神社で、神社は吉備を治めていた首長をお祀りしています。同様に考えると為那都比古神社は為那を治めていた首長をお祀りしていることになります。神社周辺を俯瞰すると、西に猪名川が流れています。猪名川は大阪府の能勢町に隣接する兵庫県の山間から大阪湾に向かって流れる一級河川で、流域には古墳も多いですし、以前投稿した多田神社はこの猪名川流域に鎮座しています。ちなみに多田神社からもう少し下ると池田の伊居太いけだ神社があり、さらに下流には弥生時代の集落遺跡である田能遺跡があるというように、土地の歴史を伝える魅力の多い川ですが、為那はこの猪名川の猪名を手がかりに探っていくと、おぼろげながら古代の当地の様子が見えてくるかもしれません。

『日本書紀』応神天皇三十一年に次のような記述があります。

三十一年の秋八月に、群卿まへつきみたちみことのりして曰はく、「官船みやけのふねの、枯野と名くるは、伊豆国よりたてまつれる船なり。是朽ちて用ゐるに堪へず。然れどもひさ官用おほやけものと為りて、いたはり忘るべからず。いかでか其の船の名を絶たずして、後葉のちのよに伝ふること得む」とのたまふ。群卿、便ち詔をけて、有司つかさのりごとして、其の船のを取りて薪として塩を焼かしむ。是に五百籠いほこの塩を得たり。則ち施してあまね諸国くにぐにに賜ふ。因りて船を造らしむ。是を以て、諸国、一時もろとも五百船いほのふね貢上たてまつる。ふつく武庫水門むこのみなとに集ふ。是の時に当りて、新羅の調使みつきのつかひ、共に武庫に宿やどりす。ここに新羅のやどりに、忽に失火ひつきやけうせぬ。即ち引きてつどへる船に及びぬ。而してつど船焚ふねやかれぬ。是れに由りて新羅人を責む。新羅のこきし聞きて、讋然ぢて大きに驚きて、乃ち匠者たくみを貢る。是れ猪名部ゐなべ等が始祖はじめのおやなり。  (岩波文庫『日本書紀 二』)

武庫水門に大王家の船百艘を停泊させていたところ、新羅の調使の船から失火し大王家の船が焼けてしまったことから、新羅の王が優れた工匠を倭国に献上した、それが猪名部の始祖だということです。武庫川や猪名川の河口付近には造船を得意とする渡来人が居住していました。その歴史を伝えています。

 

少し時代下った仁徳天皇の時代にも、猪名の文字が見えます。『日本書紀』仁徳天皇三十八年に次のような記述があります。

秋七月あきふみづきに、天皇すめらみこと皇后きさきと、高台たかどのしまして避暑あつきことをさりたまふ。時に毎夜よなよな菟餓野とがのより、鹿鳴聞ねきこゆること有り。其の声、寥亮さやかにして悲し。共に可怜あはれとおもほすみこころを起したまふ。月尽つきごもりいたりて、鹿の鳴聆ねきこえず。ここに天皇、皇后に語りて曰はく、「是夕こよひに当りて、鹿鳴かず。其れ何に由りてならむ」とのたまふ。明日くるつひ猪名県ゐなのあがた佐伯部さへきべ苞苴おほにへたてまつれり。天皇、膳夫かしはでのりごとして問ひてのたまはく、「其の苞苴は何物ぞ」とのたまふ。こたへてまうさく、「牡鹿しかなり」と、まうす。問ひたまはく、「何処いづこの鹿ぞ」とのたまふ。日さく、「菟餓野のなり」とまうす。時に天皇、以爲おもほさく、是の苞苴は、必ずの鳴きし鹿ならむとおもほす。因りて皇后に語りて曰はく、「われ比懷抱このごろものおもひつつ有るに、鹿の声を聞きてこころやすむ。今佐伯部の鹿を獲れる日夜とき及び山野をおしはかるに、即ち鳴きし鹿に当れり。其の人、朕がみすることを知らずして、適逢たまさか獮獲いえたりといえども、猶已なほやむこと得ずして恨しきこと有り。かれ、佐伯部をば皇居みやこちかつけむことを欲せじ」とのたまふ。乃ち有司つかさのりごとして、安芸の渟田ぬた移郷つかはす。これ、今の渟田の佐伯部のおやなり。   (岩波文庫『日本書紀 二』)

仁徳天皇が摂津の莵餓野(現在の兵庫県神戸市兵庫区夢野町付近)の地で鹿の鳴き声を聞いて慰みとしていたところ、ある日鳴き声が聞こえなくなり、翌日猪名県から食肉が贄として貢納されてきた、天皇はやむを得ないとはいえ恨めしく思い、猪名県の佐伯部を安芸国に遠ざけたということで、ここから猪名県には鹿がいて佐伯部は狩猟を得意としていたことがわかります。

猪名県は現在の箕面、豊中、池田、川西、伊丹、尼崎に相当する猪名川の両岸に拡がる北摂地域に相当します。猪名川を押さえた首長の力が垣間見えるようですが、為那都比古神社の為那は猪名県の猪名で、神社の御祭神である為那都比古神は猪名地域を治めていた首長ではないでしょうか。医王岩や銅鐸発見場所からそう遠くないところに稲や新稲という地名があります。はじめは単純に稲作から来ているものと思いましたがそうではなく、このあたりの土壌は稲作には適さなかったことから、平安時代には諸国から貢上された馬牛を放し飼いにするための為奈野牧(伊丹市荒牧付近)や豊島牧(箕面市牧落付近)が置かれるようになっていますので、猪名県の猪名に由来すると考えたほうがよさそうです。

猪名の首長をお祀りしたのが為那都比古神社だとして、それを奉祭したのは誰だったのかということですが、これについては諸説あるもののどれも確証はなくわかりません。わかりませんが、多田神社や能勢妙見山、伊居太神社などを訪ね歩く中でたびたびその足跡に触れてきた秦氏を可能性の一つとしてあげておきたいと思います。能勢妙見山のところでも触れたように、池田の伊居太神社と呉服くれは神社は秦上社、秦下社と呼ばれていましたし、五月山の東にある鉢塚古墳の被葬者は秦氏ではないかと言われています。何より池田は律令制の時代摂津國豊島郡の秦上・秦下郷でした。また『日本の神々』によると、為那都比古神社の本来の鎮座地に建てられた神宮寺の大宮寺は、寛平四年(八九二)に神社を管理していた豊島郡司の時原佐道の案内で訪れた聖宝尊師が開山したということで、時原氏というのは「清和天皇貞観五年、秦忌寸春風等三人に時原宿禰の姓を賜う」と平安時代の『三代実録』時代にある時原宿禰に繋がるのではないか、つまり秦氏の支族ではないかということです。

地図をもう一度よく見ると、為那都比神社(元の鎮座地)と伊居太神社は箕面から池田に続く連山の麓の東と西にあって、その距離は五キロほどしか離れていません。また伊居太神社の南一キロほどのところにも猪名津彦神社があります。(ちなみにその鎮座地は元々古墳だったそうです)

  

 

広大な猪名の土地を治めた首長への敬意が、北摂の連山の麓に刻まれたということかもしれません。そう思うと、日々目にしている山並が一層いとおしいものに思えてきます。

 

伊居太神社や鉢塚古墳について投稿の機会を逸していましたが、今回をきっかけにようやく出番が巡ってきた感じがしますので、近いうちに取り上げようと思います。

 

 

 

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