たまった書類の片付けをしていたら、箕面市の史跡イラストマップが出てきました。以前近所のレストランで食事をした際、ランチョンマットとして使われていたもので、おもしろいのでもらってきたのはいいけれど、いつの間にかそこに書かれていた内容もイラストマップの存在も忘却の彼方に押しやられていたのですが、久しぶりに眺めていたら中央に如意谷銅鐸出土地とあって、銅鐸の絵が描かれているではありませんか。如意谷は箕面の滝や勝尾寺のある箕面の山の南麓で、何度も近くを車で通っている馴染みの場所です。そこが銅鐸の出土地だったとは、灯台もと暗しとはこのことです。八尾市の高安山の麓で二つの銅鐸が見つかった話を書いたばかりだったので、イラストマップの発掘は単なる偶然とも思えず、嬉しくなって早速行ってみることにしました。
如意谷の丘陵地帯は一九六〇年代から大規模に宅地開発され、現在はURのマンションなどが林立しています。銅鐸が発見されたのは一番早い時期に開発された箕面如意谷住宅の工事現場でした。今から五十五年前の一九六六年元旦のことで、犬の散歩をしていた地元住民が土中に光るものを見つけ、それが銅鐸だったということです。鈕(紐をかける部分)を北西に、裾を南東に向けた状態で、鰭(銅鐸の左右に魚の鰭のように突出した扁平な部分)を上に向けて埋納されていたそうです。ブルドーザーによって一部破損していたのは残念ですが、高さ八十四センチ、袈裟襷紋が描かれた銅鐸は堂々たるものです。(銅鐸は箕面市郷土資料館で展示されています。)
銅鐸が発見されたのは、この階段の上に建つ団地の一号棟付近とのこと。説明表示からさらに階段を上がった突き当たりがその場所です。
なかなか場所がわからず周囲をかなり歩きましたが、歩いたおかげでこの一帯の急な勾配が実感できました。息が上がったころ後ろを振り返れば、目の前には千里丘陵を経て梅田のビル群まで一望できる見事な眺望が拡がっています。目を凝らすと私が暮らしている小さな丘陵もしっかり捉えることができました。古代なら当然大阪湾も見えたはずです。
開発前、この丘陵はどのような姿をしていたのでしょう。歴史を知らなければどこにでもあるような団地の風景ですが、立派な銅鐸がこの斜面に埋められていたと思うと、如意谷とその周辺の景色が違ったものに見えてきます。
ところで、銅鐸発見場所から少し東に行ったところにも、古代人の祈りの場が残されています。団地の下を通る山麓線(府道九号線)を東に三百メートルほど行き、そこから北に五百メートルほど山に向かって入ったところにある、医王岩と呼ばれる磐座(冒頭の写真)がそれです。
途中、鐘楼や大宮寺のお堂がありますが、これらは明治四十年まで当地にあった為那都比売神をお祀りする為那都比古神社(大宮社とも称する)の名残で、お堂はその神宮寺のものだといいます。
為那都比古神社は摂津国豊島郡の式内社で、現在はここから八百メートルほど東の箕面市石丸に新しい社殿を構えていますが、江戸時代の『摂津名所図会』によれば元は当地にあって為那都比古神と為那都比売神をお祀りしており、それが後に石丸に遷り、当地には神宮寺のお堂と鐘楼だけが残ったということのようです。ちなみに写真下が石丸にある為那都比古神社です。
興味深いのは、医王岩がここからすぐのところにあることです。つまり為那都比古神と為那都比売神をお祀りする為那都比古神社の起源は、磐座信仰にあるのではないでしょうか。
医王岩は高さがおよそ二十五メートル。三つの巨巌が重なり、人が立っている姿にも見えるこの岩に圧倒されひれ伏す古代人の姿が思い浮かびます。信じ仰ぐ、信じ尊ぶ。この岩に古代からの人間のそうした感情が堆積していると思うと、一層の敬意を払いたくなります。信仰について普段あまり口にすることがなく、口にすることもどこか抵抗がある、しかもそれ自体そもそも持っているのかどうかもわからないような暮らしをしていますが、信仰というのは宗教にかかわらず人間の根源的な感情でもっと身近にあるものなのではないかと、岩を見ていて思いました。
為那都比古神社の話が出たので、機会を改め投稿しようと思います。
今年一年ご覧いただきましてどうもありがとうございました。どうぞよい新年をお迎えくださいませ。