生駒山地周辺に惹かれ訪ねる機会が増えてくると、山並に沿うように南北に走る道の存在が気になってきます。東高野街道です。
京の都と高野山を結ぶことからそう呼ばれるようになったこの街道は、東海道の起点(あるいは終着点)である三条大橋から大津に向かう途中の追分で京街道に入り、石清水八幡宮のある八幡で京街道と分かれると生駒山地に沿うように南下、河内長野で堺から来た西高野街道と合流し高野山に到るというもので、八幡から河内長野までが東高野街道と呼ばれます。大部分が、現在の国道一七〇号線の東に並行する旧国道一七〇号線に相当します。(余談ですが、京街道は大坂の高麗橋と追分を結ぶ道で四つ宿場があります。大坂を目指し東海道を西向きに歩いた場合、五十七の宿場を通ることになるので、東海道五十七次と言われることもあります。)
高野山を開いたのは空海で平安時代のことですから、東高野街道が高野山への参詣道として使われたのもそれ以後のことですが、道自体はずっと以前からありました。以前の投稿で心合寺山古墳や恩智遺跡を取り上げました。そうした遺跡の存在は人の往来を伝える確かな証拠で、恩智遺跡が縄文時代に遡る遺跡であることからも、道の歴史もその時代まで遡ることができそうです。そういう街道ですから周辺には古社寺を含め多くの史跡があり、興味が募っています。
今日取り上げる鐸比古鐸比賣神社もその一つ。八尾市で銅鐸が発見された場所から東高野街道を二キロほど南に行ったところにあります。現在の住所は柏原市で、さらに二キロほど南下すれば大和川という場所です。
東高野街道沿いに最初の鳥居。神社は突き当たりに見える高尾山の麓に鎮座しています。
神社は石段の上ですが、石段下から右に分かれる道を上っていく人、逆に下ってくる人を何人か見かけました。この道は背後の高尾山に通じる登山道です。高尾山は標高が三百メートルに満たない低山ですが、眺望がよく、遊歩道や公園が整備されているので、散歩の延長で上る人が多いようです。山のことは後で触れることにして、まずは神社へ。
冒頭の写真からもわかるように、社殿は山に食い込むように建ち、境内に足を踏み入れると冷気に包まれ空気が変わったように思えます。拝殿は江戸時代の再建とのことですが、山と一体になった佇まいは悠久の歴史を感じさせます。
社伝によると創建は第十三代の成務天皇二十一年、往古は鐸比古命は高尾山の山頂に祀られ高尾明神と称し、鐸比賣命は山麓の姫山に祀られ比賣御前と称していたとのこと。中世に現在地に遷され二神が合祀されたようです。御祭神の鐸比古命は第十一代垂仁天皇の御子で、記紀に沼帯別命あるいは鐸石別命と記されているのがそれであると伝えています。
ちなみに鐸石別命は和気清麻呂で知られる和気氏の遠祖とされ、清麻呂生誕地と伝わる岡山県の和気神社には御分霊がお祀りされています。和気清麻呂といえば、神護寺のところでも触れていますので、関心のある方はそちらもご覧いただけたらと思いますが、神護寺境内で清麻呂をお祀りしていた護王善神社が、京都に遷り護王神社になっています。その護王神社の宮司で和気氏の子孫の半井真澄氏が、大正三年に鐸比古神社は和気氏の祖神である鐸石別命をお祀りする神社であるとしたため、鐸比古命=鐸石別命となったようです。
ですので、記紀に記されている沼帯別命あるいは鐸石別命と、当社の御祭神である鐸比古命との関係も、また成務天皇の時代の創建も、伝承のまま受け取ることはできませんが、神社の歴史においてこうしたことはままあることで、そのように伝えられるに到った背景もまた歴史と言えます。
それはさておき、当社にお詣りに来ようと思うきっかけは鐸の字の入ったその社名にありました。恩智遺跡で二つの銅鐸が見つかった場所から二キロほどですから、ここも銅鐸と何か関係があるのではないかと思ったのです。実際ここから銅鐸は発見されていませんが、大正十四年に神社背後の高尾山から多鈕細文鏡という弥生時代中期の銅鏡が出土したことを知りました。多鈕細文鏡というのは、鏡の裏に紐を通す紐が二、三個付き細い線で幾何学模様が施された朝鮮半島由来のもので、境内の説明表示によると日本では七面しか見つかっていないとのこと。高尾山の鏡はその中でも最大で、現在は東京国立博物館にあるとのことですが、これは銅鐸に劣らず古代に心誘う大発見ではないでしょうか。高尾山からは他に弥生時代の土器や石鏃、石槍なども見つかっていて、高地性集落が営まれていたと考えられるそうです。多鈕細文鏡は副葬品として用いられたとのことなので、そこに首長が埋葬されていたのかもしれません。
そもそもこの神社のある柏原市大県と北に隣接する平野の一帯からは、縄文時代から奈良時代にかけての集落遺跡が見つかっており、大県遺跡と呼ばれています。また高尾山の北西から南西にかけての尾根からは、平野・大県古墳群といって古墳時代後期と思われる古墳が多数出ています。その中で興味を惹かれるのは、古墳時代の集落跡から鉄滓や砥石、鍛冶生産遺構である鍛冶炉、炭窯、金床状遺構、覆屋付き鍛冶工房跡などが、また古墳からは鉄滓が出ていることです。これは柏原市が高尾山に創造の森という公園を整備する際に行った調査でわかったことで、報告書に詳しいことが書かれていますが、この一帯は古墳時代鉄生産の一大拠点で、古墳はそれを指揮する指導者のものだったということから、鐸比古鐸比賣神社の御祭神も元はそうした人たちがお祀りする神様だったのではないだろうかというところに思いが至ります。
鐸という字は「たく」「ぬで」「ぬて」「ぬりて」の他に「さなき」と訓まれることもあります。「さなき」は古語の佐那伎つまり鉄鐸のことで、鉄鐸も「さなき」と訓まれます。鉄鐸は鉄で出来た筒状のもので、祭祀に用いられたと考えられています。当社の御祭神名に見られる鐸の字は、鉄にまつわる歴史を伝えているのかもしれません。
地図を眺めていたら、高尾山の東一キロほどのところに雁多尾畑の地名を見つけました。六月に投稿した龍田大社のところで雁多尾畑に金山媛神社があり、製鉄に関わる人が暮らした集落跡も見つかっていると書きました。高尾山も雁多尾畑も、同じ生駒山地南端にあり、すぐ南を大和川が流れています。
東高野街道に沿ってほんの少し南下しただけで、一つ一つの関心の点が、少しずつ結びついていくようです。
神社の石段から見下ろす町並に、縄文時代からの人の暮らしを想像するのは楽しいものです。 山に登ればこれをはるかに上回る眺望が得られるはずです。
高尾山のことは機会を改めて投稿いたします。