前回触れた恩智遺跡は高安山西麓の扇状地にあり、中心は恩智神社旧社地の天王の杜でした。そこから縄文時代のものとして縄文土器や石棒、土偶の一部など、弥生時代のものとして弥生土器、木製の農耕具、石包丁に加え、銅鐸も出ています。銅鐸は全国で五百ほどが見つかっていて、そのうち八尾市からは三点。大阪府においては一つの市から見つかった数として最多だそうです。三点のうち恩智遺跡からは二点、しかもほぼ完全な形で見つかっています。発見場所の一つは安養寺裏山である字垣内山の傾斜面(大正十年)、もう一つはそこから東に四十メートルほどの字都塚山(昭和二十四年)で、両者は非常に近い距離にありながら銅鐸の文様が全く異なります。ちなみに残りの一点は、恩智遺跡から三、五キロほど西、JR八尾駅に近い跡部遺跡で、横に寝かせ埋められた状態で発見されました。低湿地での発見としては、日本初だったそうです。
安養寺裏山から出土した銅鐸は、流水文銅鐸といって平行線が左右に行ったり来たりを繰り返す、まさに水が流れているような文様。
他方、都塚山から出土した銅鐸は横帯と縦帯が直交し四または六の区画に文様や絵が描かれた袈裟襷文様。
八尾市歴史民俗博物館でこれらのレプリカを目にし、銅鐸が発見された場所に行ってみたくなりました。(上の写真二点は同博物館が発行している図録から取らせていただきました。)
安養寺は恩智神社から北西に二百メートルほどのところにあります。創建時期は不詳。もともと地蔵堂だったところに、泉佐野の上善寺の僧侶が末寺として安養寺を開いたようです。上善寺は知恩院の末寺で戦国時代の創建と伝わりますので、安養寺の創建もそれとそうかけ離れた時代ではないかもしれません。安養寺にお祀りされていた阿弥陀如来像は明治の廃仏毀釈の際上善寺に遷され、現在は泉州大仏として親しまれているとのこと。
現在の安養寺では小ぶりの阿弥陀如来が御本尊ですが、参道に始まり境内の至るところにお祀りされている石仏の印象が強いお寺です。石仏は四国八十八カ所の御本尊のほか、不動明王や地蔵菩薩なども。新しそうなものもあれば古そうなものもありで、渾然一体としています。
本堂奥の階段を上がっていくと、裏山には不動明王堂、大師堂、毘沙門堂に加え、金比羅大権現に脳天大神…と、次々にお堂や祠が現れます。
さまざまな信仰が混在したこの独特の雰囲気は、以前お詣りに訪れた天照大神高座神社によく似ていて、いかにも生駒山麓という感じがします。
銅鐸はこうした石仏やお堂が点在する裏山で土砂崩れが起きた際に発見されました。(石碑のあるところが発見場所ということではないようです。)
銅鐸は弥生人が祭祀に用いた祭器と考えられています。弥生人の何よりの願いは、作物が豊かに実り、人々が安定して命を繋ぎ共同体が発展していくことでした。鋳造されたばかりの銅鐸は太陽の光を受け輝いていたでしょう。祭りを執り行う者は、まばゆい光を放つ銅鐸を鳴らすことで神を呼び寄せ、共同体に暮らす人たちの心を一つにしたということでしょうか。『祭りのカネ銅鐸』によれば、「銅鐸とは穀霊を呪縛し、邪気から護るという二つの役割を担った豊穣のための呪器である」というのが、現在の研究の結論のようです。その呪器である銅鐸が地中に埋納されていたのはなぜなのか、いまなお銅鐸は謎に包まれていますが、埋納されたことによって銅鐸は大地と深く結びつきますので、それは豊かな実りをもたらす母なる大地に穀霊が植え付けられたということではないかと、勝手な想像を巡らしたくなります。先の本に興味深いことが書かれています。銅鐸の出土地は、香川県の明神原、大阪府の神於、兵庫県の神種、愛知県の神領、島根県の神庭といった具合に、多くの場合神という字が付くというのです。それなら二つの銅鐸が出土した当地はどうなのだろうと思い、地図と眺めていたら、安養寺から二キロほど南に鐸比古鐸比賣神社を見つけました。銅鐸の鐸を社名に冠したこの神社はどのような神社なのでしょう。機会を改め、生駒山地に沿ってさらに南下してみることにします。