早いもので師走になりました。鮮やかな色を放出した木々もそろそろ冬支度に入っています。暮れも押し詰まってくると何となく気ぜわしくなりますし、施設などはお休みに入ってしまうこともあって、十二月というのは一年で最も短く感じられます。だからこそ意識して過ごしたい月です。十二月は今年一年を締めくくる月でもありますが、来たるべき新しい年に向けての準備の月でもあり、十二月に一歩踏み出しておくと、年改まってから二歩目の足を出すのが楽になり、そこからとんとんとスムーズに足が前に出るようになります。そんなことから、十二月はまた大阪に立ち戻ってみることにします。
一月ほど前に八尾の玉祖神社について投稿しました。そこから生駒山地に沿って三キロほど南に行くと恩智神社があります。玉祖神社が鎮座しているのは高安山の北西麓でしたが、今回取り上げる恩智神社の鎮座地は高安山の南西麓で、六百メートルほど北には天照大神高座神社があるという位置関係です。
冒頭の写真は、神社から四百メートルほど西にある一の鳥居。ここからまっすぐ高安山に向かって歩いていくと、神社の木立が見えてきます。
きれいに整備された参道、その先には急な石段。高安山に食い込むように恩智神社が鎮座しています。
恩智神社は河内国の二宮と言われていますが、確証はありません。ちなみに河内国一宮は枚岡神社です。恩智神社は元々当地ではなく、ここから八百メートルほど西の、現在御旅所になっている天王の杜にあったものを、南北朝時代に在地の豪族恩智左近が恩智城を築く際、神社を見下ろしては失礼とのことからより山に近い当地に遷されたそうです。恩智城は天王の杜と恩智神社の中間(冒頭の写真の鳥居から南東に百メートルほどの場所)に築かれ、現在は城址公園になっています。神社の石段は、昭和五十二年に宮司さんはじめ氏子たちの尽力により修復されたとのこと。神さびた雰囲気が薄いのは残念ですが、表面的な印象はさておき、恩智神社を含めた恩智一帯は祈りの原点ともいえる古代祭祀が行われていたところと知り、静かな興奮に包まれています。
その話に入る前に、まずはお詣りを。
創建時期は不詳(神社では五世紀雄略天皇の時代と伝えていますが…)。御祭神は大御食津彦命と大御食津姫命。名前からもわかるように、食物を司る神様です。写真下は本殿で、向かって右に大御食津彦命が、左に大御食津姫命がお祀りされているのですが、この二つの本殿の間に小さな社殿があります。末社の天川神社で春日辺大明神をお祀りしています。
末社が本殿の男神と女神の間に挟まれた位置にあるというのはあまり聞いたことがありません。天川神社は末社とされてはいるものの、大御食津彦命と大御食津姫命に並び大切な神様をお祀りするお社ということでしょう。御祭神の春日辺大明神は春日戸神のことで、天照大神高座神社でも触れたように渡来系の春日戸がお祀りしていた神様です。恩智神社から天照大神高座神社まではおよそ六百メートル、高安山の西南麓ということでは同じ地域とも言えます。天川神社は元はさらに山に入ったところにあり、明治になってから現在地に遷されたようですから、神社としての起源に関わる神様はむしろこちらではないでしょうか。
ちなみに上の写真は境内の向かって左にある摂社の春日神社、天児屋根命をお祀りしています。天児屋根命は藤原氏の祖神で、春日大社の御祭神の一柱です。恩智神社は元春日と言われていますが、これは春日大社の社家の大東家が中世に恩智神社の社家になったことから、恩智神社と春日大社を結びつけるようになったと考えられるようですから創建にまつわる直接的な結びつきはなさそうですが、明治になるまでは春日大社の猿楽を恩智神社が受け持っていたように、神事における繋がりはありました。神事における繋がりということでは、住吉大社も忘れてはなりません。六月の御祓神事の際、恩智神社の神輿が河内と摂津の境に位置する鞍作村(河内国渋川郷鞍作村、現在の平野区)の御旅所で、住吉大社の神官の出迎えを受け、住吉浦で禊ぎをしてまた神社に戻るということが明治になるまで行われていたそうです。神功皇后の朝鮮出兵の際、海上に住吉大神と共に恩智の神が現れ両神は皇后と一緒に戦ったことから、凱旋後恩智の神は生駒山の南西麓にあたる高安郡の七郷を賜ったという伝承が、神社の創建に結びつけて伝わっています。これは伝承ではありますが、住吉大社との結びつきはかなり古い時代に遡ることができそうです。地図を見ると、住吉大社と恩智神社は東西ほぼ一直線で結ばれます。住吉大社は海の玄関口にあり、古代大変重要な役割を担ってきた古社です。神事の形で伝えられてきた両社の関係は、古代の人の流れや結びつきを伝えるものでもあると思うと、恩智神社にはまだまだ明らかになっていない歴史が秘められているように思えます。
ところで、初めに触れたように、恩智神社は元はここから八百メートルほど西の天王の杜にありました。現在は御旅所として小さな社殿があるだけですが、実はここは河内平野の代表的な遺跡である恩智遺跡の中心で、縄文前期から弥生時代にかけての遺跡が多数見つかっています。
最初の発見は大正六年(一九一七)、弥生時代の遺物が見つかったことを受け、昭和十四年(一九三九)に更に調査をしたところ石の遺構や弥生式土器が多数見つかり、さらに後には縄文土器も発見されたそうです。昭和の後半には、恩智川の改修工事で掘削した際、この天王の杜からかなり離れたところからも遺跡が見つかり、恩智遺跡はかなり広範囲にわたることがわかったといいます。その際発掘された土器はコンテナ千箱あまりといいますから、大変な量です。
八尾の歴史民俗資料館に恩智遺跡から発掘された縄文土器が展示されていますが、地元で作られた土器に加え、岡山県の中津式土器や滋賀県の滋賀里式土器や、東北の亀岡式土器の特徴を持つ土器などがあり、広範囲にわたる人の交流がうかがえます。
生駒山地周辺は古くから人の営みがあり、ここに限らず遺跡は多いのですが、恩智遺跡で見つかった出土品の量は群を抜いているようです。そうした中で私が最も関心を持ったのは、恩智遺跡から銅鐸が発見されたことです。八尾市では三点の銅鐸が見つかっていて、そのうちの二点が恩智遺跡からです。場所は現在の恩智神社と天照大神高座神社の間の山の斜面。正確な場所はわかりませんが、一つは恩智神社に近い安養寺の裏山とのことなので、そちらに行ってみることにします。