いつも見慣れている風景を一変させる色彩の魔術師は、春なら桜、秋なら紅葉。タイミングを合わせるのがやや難しい桜と違い、紅葉は色付き具合の予想がしやすいうえに、見頃の期間も桜に比べて長いので、一シーズンに一度といわず二度、三度と印象的な風景に出会うことができます。場所が違えば色彩も異なりますし、同じ赤でも木々の後ろに見え隠れする建物や風景によって赤の見え方が違ってきます。都合さえつけば盛りの色を追いかけるのにそう苦労はいらないということもあり、あちらでも見、こちらでも見で、頭の中が色であふれかえったころ、季節は冬を迎えます。紅葉狩りは、色彩の乏しい冬を過ごす前に目に栄養補給をしてくれます。ところが去年は宿題をこなすのに精一杯で、外出する気持ちのゆとりが生まれたのは十二月に入ってからでした。それでも期待せずに訪れた西山の光明寺がまだ鮮やかさを保っていたのは嬉しい誤算で、光明寺の紅葉のおかげで空白になっていた十一月が取り戻せたような気がしました。ひとすくいの清水がからからに乾いた喉を潤してくれるように、あのとき目にした色彩はそれだけで目ばかりか心にも豊かな栄養をもたらしてくれました。そんな去年の状況から一変、今年は冬の到来前に十分な栄養補給ができそうです。
京都盆地の北西、右京区梅ヶ畑の栂尾、槙尾、高雄(尾)を総称して三尾と称し、それぞれに高山寺、西明寺、神護寺の名刹があります。清滝川の渓谷の風景も見事で京の奥座敷として季節を問わず人気の場所ですが、とくに秋の紅葉は京都の中でも五指に入ると言ってもよいのではないでしょうか。先日訪れた三尾で色とりどりの紅葉を目にすることができましたので、三回に分けて色彩の競演をお届けしようと思います。
雲ヶ畑の北に桟敷ヶ岳という標高九百メートル近い山があり、京都を潤す鴨川はこの山が源流とされていますが、三尾を流れる清滝川も桟敷ヶ岳に発しています。清滝川は以前投稿した志明院の北西を通り、北山杉の里が点在する周山街道に沿うように南下、三尾を経て保津峡で桂川に合流する一級河川です。神護寺の南は錦雲峡という名前の通り紅葉の名所ですが、ここに限らず清滝川が作り出す渓谷風景にはいつも目を奪われます。この清滝川と山々が作り出す自然が、三尾の紅葉をより美しいものにしているような気がします。
まずは三尾の中で一番北の栂尾にある高山寺へ。高山寺を訪れるのは十数年ぶりです。記憶の中の高山寺は、三尾の中で深山幽谷の趣きが一番強かったのですが、参道が整備された上に、おそらく台風被害によるのでしょう、かなりの木々が伐採され見通しがよくなってしまったせいで、深閑とした感じは薄れてしまいました。とはいえ落ち着きと優美さを兼ね備えた石水院(国宝)は以前と変わりなく、蔀戸が開け放された南縁から山々を借景にした庭の紅葉風景に目を遊ばせる時間は、山寺ならではの内省的なひとときでした。
石水院(国宝)のお座敷には、複製ではありますが明恵上人樹上坐禅像が掛かっています。高山寺の後ろの楞伽山で、入り組んだ松の二股に分かれた枝に座り瞑想に耽る明恵上人。緻密に描かれた枝、その隙間から見える栂尾の風景、枝に遊ぶ栗鼠、飛び交う小鳥…巧まざる自然描写の技に見入ると同時に、一切の欲を絶ち釈迦への強い思いのもと隠遁生活を送りながら強靱な精神で修行に励んだ明恵上人の人間性がにじみ出た表情に惹きつけられます。明恵上人ほどの高僧、厳しさに跳ね返されるのかと思っていましたが、そうではなく、むしろ引き寄せられます。この絵の作者は明恵上人の近侍、恵日坊成忍によると言われていて、作者の技術がそう感じさせるというところが一番大きいのでしょうが、こういう絵を描かせた明恵上人その人の魅力あってこそのものです。動物と会話することができたという逸話、釈迦への強い思慕から右耳を切り落としたという逸話、釈迦へ手紙を書いたという逸話…。いまその詳細を書くことは省きますが、つまるところ明恵上人の純真無垢な心が元にあると感じます。末法思想が吹き荒れる中、その純真さが学問の追究に向かいその成果として多くの著作が生まれましたし、顕教密教の区別なくどうしたら釈迦に近づくことができるかを考え抜いた結果顕密諸宗の復興を計ることができたのではないでしょうか。
高山寺は鎌倉時代のはじめに、その明恵上人によって開かれたお寺です。
紀伊国に生まれた明恵上人は幼くして両親を亡くし、母方の叔父である上覚がいた神護寺で修行を始めますが、将来を嘱望されるも二十三歳で俗縁を絶ち、紀伊国白上山で隠遁修行を重ねます。遁世僧として学問、修行に邁進していたところ、神護寺の別院があった栂尾を建永元年(一二〇六)後鳥羽上皇から賜り、高山寺に改めたことから、このときが高山寺の開山とされています。
高山寺は幾度となく戦乱や火災に遭い、創建当時の建物は石水院をのぞき残っていません。石水院は後鳥羽上皇の学問所だった建物が下賜されたもので、明恵上人の住まいとして使われていたそうです。撮影禁止のため室内の写真はありませんが、明恵上人が起居した空間と思うと感慨深いものがあります。元は金堂の後ろあたりにあり、現在地に移築されたのは明治時代といいますから、南縁からの眺めは明恵上人が目にしたものとは異なりますが、境内から見える山々は変わることはないでしょう。
石水院には国宝の鳥獣戯画図や木彫りの子狗像も展示されています(いずれも複製)。この二つは動物好きにはたまらない作品で、本音を言えば明恵上人樹上坐禅像より惹かれます。明恵上人樹上坐禅像に描かれた小動物が暗示するように、明恵上人は自然を愛し、動物には慈しみの心を持っていました。亡き父母への思いが強かった明恵は、子犬を見ると父母の生まれ変わりではないかと思ったこともあるようですし、夢を記した『夢記』にもたびたび動物が登場します。とくに晩年には夢に子犬が出てきたとか。石水院にある小狗の木彫は伝湛慶作、明恵上人愛玩の像として伝わっています。ころんとした子犬の可愛らしさが実によく出ていて、思わず触りたくなるのですが、複製とはいえアクリスケールに入っているので、同じことを思う人が多いということなのでしょう。鳥獣戯画図は大変有名でご存じの方も多いと思いますのでここに図版は載せませんが、これもまた動物本来の生態を巧みに捉えた上での戯画で、思わず笑みがこぼれてしまいます。甲乙丙丁の四巻からなり、描かれた時間には開きがあり、作者についても諸説あって確かなことはわかりませんが、なぜこれが山奥のひっそりとした高山寺に伝わったのか、関心はむしろそちらにあります。仮説として、明恵上人の追善法要に合わせ仁和寺から高山寺に伝わったのではないかという説があるようです。動物を愛した明恵上人を思えば、そういうこともあったかもしれませんし、そうあって欲しいとも思います。
石水院から境内奥へと向かう途中、深紅の紅葉が目に飛び込んできました。
下の写真は、明恵上人像(国の重要文化財)を安置する開山堂。こちらではオレンジ色の紅葉が建物を彩っていました。
開山堂からさらに上へ上っていくと、明恵上人の御廟があります。明恵上人が好まれそうな、山を望む静かな一画。どこか控えめな紅葉も、明恵上人には相応しいのかもしれません。
人は阿留辺機夜宇和と云う七文字を持つべきなり。
僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪きなり。
我は後世たすからんと云者に非ず。ただ現世に、先ずあるべきやうにてあらんと云者なり。
これは『栂尾明恵上人遺訓』にある明恵上人の言葉です。何年か前に「ありのままで~」という歌が流行りましたが、明恵上人の「あるべきようわ」は「ありのまま」とはかなり違い、その時々どうあるべきか、自己を見つめ、熟考し、ときに自分に厳しさを課することもある、強い精神力を必要とする生き方ではないでしょうか。この言葉を座右の銘とした明恵上人が眠る御廟前で、静かに手を合わせました。