大阪の古墳群といえばまず百舌鳥・古市古墳群を思い浮かべますが、生駒山地西麓も四世紀から六世紀後半にかけて造られた古墳の密集地帯です。前回投稿した心合寺山古墳は、中河内最大の前方後円墳で古墳時代中期のものでした。ここから山に向かって数百メートル歩けば古墳時代前期の西の山古墳、花岡古墳、向山古墳や後期の愛宕塚古墳などもあり、これらの古墳群は楽音寺・大竹古墳群と呼ばれています。宅地や大学の造営により壊されてしまったものもありますが、指呼の間に点在する古墳群は、生駒山地西麓、現在の八尾市北東部に古墳時代巨大な勢力があったことを教えてくれます。
これら古墳群があるのは生駒山地西麓、より厳密にいえば、生駒山地を形成する高安山の西麓です。同じ生駒山地の山でも主峰生駒山や朝護孫子寺のある信貴山はその名を耳にする機会が多いのに比べ、高安山の知名度は低いですが、高安山は麓にある古墳群からもわかるように古代において非常に重要な山で、時代が下って七世紀には、白村江の戦いに敗れた際に山上に高安城が築かれもしました。高安山上からは西は大阪平野、大阪湾が、東は奈良盆地が一望できました。防衛施設を置くのにこれ以上の場所はなかったでしょう。
その高安山の峠越えの道は、難波宮の南にある玉造から十三峠を越え、竜田に出る道で、峠に十三塚があることから十三街道と呼ばれています。十三塚は全国に見られるもので、土地によってその意味合いが異なり、高安山の十三塚は供養塚か経塚ではないかとのことですが確証はなく、造られた時代も確かなことはわからず室町から江戸時代のあたりとされていますが、十三塚にちなんで十三街道と呼ばれるようになる以前から当然難波とを結ぶ道はありました。『伊勢物語』に見られる、在原業平が高安郡の玉祖神社に参詣に訪れた際、神立の茶屋の娘に恋をして八百夜通いつめた、いわゆる業平の高安通いの話などは、高安山の峠道を人々が往来していたことの現れでしょう。ちなみにこの伝説は『伊勢物語』以外でも取り上げられていて、若干細部が異なるようですが、『伊勢物語』ではまさに今日ここで取り上げようとしている神立や玉祖神社が舞台になっています。神立というのは、古墳群のあるところからさらに山に近い一帯の町で、現在は急な坂道に家々が建ち並んでいます。
心合寺山古墳から玉祖神社を目指し急な坂を歩いていると、いつの間にかその神立に入っていました。
だいぶ山が迫ってきたころ、お堂の前に出ました。神立辻地蔵。堂内にはお地蔵様が、お堂手前には二体の石仏がお祀りされています。ここが峠越えの道の入り口に当たるようで、この先十三峠にある水呑地蔵まで、こうした対の石仏が三十三箇所にわたってあるそうです。ここから山に向かって百メートルほど行ったところが神立茶屋辻とって、昔は峠越えを前に茶屋が建ち並んでいました。業平の高安通いはここが舞台です。
めざす玉祖神社は、ここから山に向かって南東方向に二百五十メートルほど、高安山に潜り込んだようなところに鎮座しています。出迎えてくれるのは冒頭の写真にもある巨大な樟。千年近い樹齢でしょうか。このご神木を見ただけでここが古い神社であることがわかりますが、玉祖神社の歴史はそれを遙かに遡ります。
境内に掲示されている御由緒には、御祭神は櫛明玉命、和銅三年(七一〇)に周防国から分霊を勧請したとあります。櫛明玉命は玉祖命の別名とされる神様で、玉造部の祖神とされています。『古事記』で、アマテラスが天岩戸にお隠れになった際、アマテラスを外に出すため様々な試みがなされます。その中で八尺瓊勾玉を作ったのが玉祖命で、山口県防府市の玉祖神社は玉祖命をお祀りする周防国一宮で、八尾の玉祖神社はこの周防の玉祖神社から分霊を勧請したものだと言われているのですが、八尾の玉祖神社から西に二キロほど、恩智川西側の池島・福万寺遺跡から古墳時代の玉造の遺構も見つかっていますし、平安時代の『和名類聚抄』に高安郡玉祖郷という地名が出ていることなどから、当地では和銅三年以前より玉造がなされいて、八尾の玉祖神社は当地の玉造部が玉祖命をお祀りしたものではないかと『日本の神々』にはあります。
玉祖神社のある神立には、難波から竜田へ向かう十三街道が通っているとはじめに書きました。西の起点は難波宮に近い玉造とも言われていて、地名が示すように玉造部の存在がうかがえます。難波の玉造部が神立に移り住んだ可能性はあるように思います。玉、つまり勾玉は装飾品というより宗教的な意味合いのほうが強いもので、心合寺山古墳からも勾玉と管玉が発掘されています。ヤマト王権によって玉造部が作られたのは五世紀の初頭と考えられるようなので、心合寺山古墳の時代とも合います。心合寺山古墳に埋葬される玉を造った玉造部が祖神をお祀りしたのが玉祖神社なのでは…と想像力が膨らみますが、玉造部が根を下ろしたのが何故ここだったのでしょう。それは古代の人にとって難波宮から見たこの地がとても重要な意味を持つ場所だったからではないでしょうか。難波宮の真東には生駒山があります。春分の日と秋分の日は難波宮から見ると生駒山から太陽が昇りますが、冬至の太陽は真東より三十度南から昇ります。難波宮から見て三十度南にある山というのが、まさにこの高安山なのです。
いうまでもなく冬至は一年で太陽の出ている時間が最も短い日ですが、冬至を境に昼の時間が長くなっていく、つまり古代人にとって冬至というのは太陽の復活の日でした。太陽の運行から種まきの時期を知るというように、太陽の動きは生死に関わるほど重要なものでしたから、山から昇る太陽に対する祈りの気持ちは現代の私たちの想像を超えた強いものだったでしょう。とりわけ冬至の日の出は、復活の象徴として崇められたはずです。ちょうど一年ほど前に、玉祖神社から南西に三キロほどの高安山の麓にある天照大神高座神社について投稿しました。ここでも冬至の日の出について触れていますが、天照という社名は太陽信仰の現れです。難波宮というのは、七世紀半ば孝徳天皇の時代に遷都が行われ、以後聖武天皇の時代まで断続的に政の舞台でしたが、記紀に応神天皇の難波大隅宮、仁徳天皇の難波髙津宮、欽明天皇の難波祝津宮が記されているように、為政者が難波を重要視したのはそれ以前からで、古墳時代に遡る可能性もあります。難波宮のあたりは上町台地の北端にあって縄文時代から人が暮らす土地でしたから、人々は難波から日の出や日没をずっと見続けてきたでしょう。どの季節にどの山から太陽が昇るのか、古代人は熟知していたはずで、そうした長年の間に培った知恵を元に難波宮の場所が決まったということもあったかもしれません。何にせよ生駒山地西麓に点在する古墳や神社は、古代人の太陽信仰と無縁ではなさそうです。
玉祖神社境内なかほどにも大きなご神木が聳えています。その根元のお立ち台に上がり、高安山に向かって両腕を拡げお願いごとをすると願いが叶うのだとか。深呼吸して山の力をいただき、家族の健康と自分自身の夢の実現など、お願いをしてきました。
神社からは大阪平野が一望できます。ここから古代人が見た風景を思い描くのもまた楽しいものです。
神社からの帰り道、冒頭で触れた向山古墳に行き会いました。斜面を利用して西向きに造られた古墳。この写真は南側の道路から撮ったもので、奥に見えるのは後円部に当たります。この辺りでは一番古いものだそうです。この南側の池畔から平安時代末期の窯跡が見つかり、ここで焼かれた瓦が宇治の平等院や京都の醍醐寺に運ばれ用いられたのだとか。いまも当地で焼かれた瓦が使われているのかどうかわかりませんが、今度平等院や醍醐寺に行ったら、屋根をじっくり見てこようと思います。
歴史の宝庫のこの土地を、もうしばらく歩き続けてみましょう。