厳しい暑さが続いています。今年は梅雨明けが遅く七月後半でもさほど気温が高くなかったので、八月になってからの猛暑が余計にこたえますが、思い返せば去年も一昨年も、八月の暑さに閉口していました。とはいえ、私は夏が好きです。強烈な陽差しを浴びるとこちらまで一段パワーアップしたような気持ちになり、訪ねるのを躊躇していた場所に足が向きます。その一つに、巨木や巨巌に囲まれた古代信仰の聖地があげられます。そうした場所は無言で強い気を発していて、自分のちっぽけな存在など一瞬にして跳ね返されてしまうような気がしますが、目の覚めるような青空や照りつける太陽の下なら一歩を踏み出せる勇気が出るのです。実際行ってみると、鬱蒼とした木立は酷暑を遮り、冷たい清流に手を浸すと体の火照りがおさまってきて、灼熱地獄の下界に比べるとまさに天国という感じがします。この爽快感も、勇気を出して訪れた喜びを倍増させてくれます。
昨年夏の盛りに訪れた京都市北部の志明院も、夏の力に助けられ行くことのできた場所の一つで、暑くなると思い出が蘇ってきます。今年の夏に導かれ足が向いたのは大阪府南部、和歌山との県境に近い葛城山中にある犬鳴山七宝瀧寺です。
葛城山中と書きましたが、この葛城山は大阪府と和歌山県の境を標高五百メートルから九百メートルほどの山々が東西に連なる山脈のことで、現在和泉山系と呼ばれています。標高八五八メートルの和泉葛城山や標高八九七メートルの岩湧山などが知られ、山脈の至るところに修験の名残が見られます。和泉山系ではなく葛城山とかつての呼び名を書いたのは、ここが修験の聖地であることを強調したかったからです。
葛城山というと、奈良県(大和国)にも同じ名前の山があります。混同を避けるため、奈良県の方を大和葛城山と呼ぶこともありますが、地図を見ればわかるように大阪と和歌山の境界に連なる和泉山系(葛城山)は金剛山や大和葛城山を擁する金剛山地に続いています。この金剛山地もかつては葛城山と呼ばれ、古墳時代には古代豪族葛城氏の拠点だったことから、一帯には多くの古墳が残っています。数年前、葛城古道に魅せられ、古道を歩いたり周辺の古墳や古社寺を訪ねたりしたことがあります。ヤマト王権との婚姻関係を軸に一時はヤマト王権に匹敵する勢力を誇りながら五世紀末までに滅亡してしまった葛城氏のことも関心の一つだったからですが、それはともかく古代において葛城は大和国の葛城山、金剛山に沿った一帯をいうものと思っていたところ、大阪府、和歌山県、奈良県の境を逆L字型に連なる山脈一帯を含むもっと広い範囲もひょっとすると葛城だったのかもしれないとわかり、葛城という響きから古代豪族ばかりかその名を冠した土地の歴史にまで思いが駆け巡っていきます。
和泉山系の方の葛城山は修験道の開祖・役小角が開いたとされ、山内各所に法華経八巻二十八品を埋納したとされる葛城二十八宿と呼ばれる経塚が点在しています。興味深いことに役小角も葛城氏の流れを汲むという説もあります。逆L字形に繋がる和泉と大和の葛城山を最も自由に行き来できたのは修験者だったはずですから、葛城氏の勢力拡大に修験者の存在も無関係ではなかったのではと想像したくなります。
今回訪ねた七宝瀧寺は葛城修験の根本道場で、山号にもなっている犬鳴山には葛城二十八宿の第八番経塚があるという、まさに修験の聖地です。巨巌に圧倒され、瀧に魅せられながらの山道をご紹介しましょう。
七宝瀧寺までの参道は樫井川沿いの渓谷道で、至るところでこうした巨巌を目にします。これは押揚岩と名付けられた岩。実際には木が岩を避けて横に延びていったのですが、岩が木を押し上げたように見えるので、そう名付けられたのでしょう。ここでは岩も生きてうごめいているような気がしてきます。
岩窟にお祀りされている迎えの行者像に手を合わせ、岩の間を縫うように進みます。
大黒天がこちらの岩からあちらの岩へと飛び移って神遊びをされたという神域。
このあたりから滝が続きます。両界の滝に続いて現れるのは、塔の滝(下の一枚目と二枚目の写真)と呼ばれるどこか優美な印象の小滝。犬鳴山にはこのほか弁天の滝、布引の滝、古津喜の滝など大小さまざま四十八の瀧があるそうです。三枚目の写真の瀧の名前がわかりませんが、滝壺の碧に吸い込まれそうでした。
山道をさらに登っていくと、朱色の瑞龍門が現れます。修験の山には吉野の大峰山のように女人禁制のところが少なくありませんが、ここは女人大峯と言われるように女性でも修行ができます。気のせいかこの門もどこか優しい感じがします。
ところで山号に掲げられている犬鳴山は、実際そういう名前の山があるというわけではありません。七宝瀧寺のある山域は燈明ヶ岳というそうですが、犬が鳴く山というのはいわれがありそうです。実際当地では次のような話が語り継がれています。
宇多天皇の時代、紀州の猟師がこの山で狩をしていると、突然連れていた犬が激しくほえ、獲物が逃げてしまった。怒った猟師が犬の首をはねると、その首は猟師に襲いかかろうとしていた大蛇に噛み付き、猟師はおかげで命拾いをした。猟師はこれを悔いて七宝瀧寺の僧となり愛犬を供養し、その話を伝え聞いた宇多天皇が犬鳴山と命名した。
この斜面の上には二基の塚があり、義犬の墓とされています。手を合わせはするものの、私は犬鳴山の犬は修験者に由来するものではないかと思っています。
今からもう九年も前のこと、私は旧東海道を往復歩きました。歩きながら途中数え切れない数の古社寺に詣でたのですが、藤枝と見付で犬の伝説を知りました。(ご関心のある方は「歩いて旅した東海道」の見付をご覧ください。)古来狼は山の神として崇められてきましたが、狼信仰の足跡を辿ると修験の道と重なることが多いのではと思い、見付に伝わる霊犬悉平太郎伝説を修験との関わりから考え、見えない道を思い描いたのが東海道の見付の文章です。犬鳴山も古来修験の山ですから、山号の犬も修験のシンボルに由来するのではないかというのが私の想像です。
役小角は七世紀、飛鳥時代の人物と言われますので、役小角開基と伝わる七宝瀧寺もその時代の創建ということになりますが、当時の信仰対象はこの山そのものだったので、七宝瀧寺という形にこだわる必要はないでしょう。ちなみに七宝瀧寺と命名されたのは、平安時代の淳和天皇の時代で、山内にある四十八の瀧のうち、七つの瀧に弘法大師が七宝をお祀りしたことにちなみ淳和天皇によって命名されたと伝わります。実際ここに来ると、本堂に御本尊の不動明王がお祀りされているにもかかわらず、惹きつけられるのは堂内の御本尊ではなく、本堂脇を流れる川であり、川に沿ってさらに奥に進んだところにある滝なのです。
落差十メートルほどのこの滝は行者の滝と呼ばれ、垂れ下がる鎖からもわかるようにいまも修行の場です。
こういう場に身を置くと、信仰の原点に戻ったような気持ちになります。信仰というのもどこか大げさです。止めどもなく流れ落ちる滝、水の流れを支え受け留める岩盤、岩の割れ目から芽吹く草、空に向かって伸び上がる木々…。それらが放つ力に引き寄せられ打たれる。ただそれだけのことですが、そこはかとない強さが感じられ、その力の水の一滴でも得たいと思う。その思いと共に、滝壺にそっと手を入れてみました。
余談ですが、先日まで文章世界における巨木や巨巌に囲まれた場に立ち向かっていました。途中何度か跳ね返されながらもなんとか滑落を免れ、山を登り切ることができたのも、夏の強烈な陽差しのおかげかもしれないと思っています。夏は暑くて仕事にならないとよく言いますが、私はむしろ逆で、冬こそ寒くて仕事にならないけれど夏は意外とふんばりがきくようです。この後は秋にかけてゆるりと下山。下山も気を抜かず、もうひとがんばりです。