久しぶりに青空を目にしました。青空の出現と共に蝉も一斉に鳴き始めました。鶯と蝉の鳴き声が混声合唱となって聞こえてきます。こういう日は宿題をいったん脇におき、ひととき気分転換をしたくなります。とはいえ、取材に出る余裕はまだありません。いずれ線を描ければと断続的に点を置き続けている取材先の中で、まだ投稿していない場所を選び出しているうち、杭全神社に眼が留まりました。神社が鎮座しているのは大阪の平野区で、先月投稿した龍田大社のところでも触れた竜田越えの道(竜田道)が河内国に入って渋河道と名を変え、難波へと通じている、そういう古道が通る要衝の地だったところです。
杭全は「くまた」と読みます。杭全というのは、川の氾濫を防ぐため「杭を全く(すべて)打った」が訛って「くまた」になったとする説や、古くから当地に居住していた百済人からくるという説など諸説あります。中世には河内源氏の流れを汲む石川源氏系の杭全氏が開発を手がけたとのことで、現在地名としての杭全は平野区の西隣、東住吉区のほうにありますが、古くは平野区から東住吉区にかけた一帯が杭全だったのかもしれません。
平野という地名は、平安時代の初め頃、坂上田村麻呂の息子、広野麿が蝦夷平定に功があったことから嵯峨天皇より当地を賜り開発したことに由来すると言われています。杭全神社が創建されたのも平安時代で、広野麿の息子の当道が貞観四年(八六二)に素戔嗚尊をお祀りしたことに始まると伝えています。それが現在の第一本殿で、建久元年(一一九〇)には伊弉諾尊をお祀りする第三本殿が、さらに後の元亨元年(一三二一)には熊野信仰の隆盛を受け熊野三所権現をお祀りする第二本殿が築かれ、以来熊野権現の総社に改められます。当時の社名は平野熊野権現社で、明治の神仏分離により杭全神社になりました。
写真上左から第一本殿、第二本殿、第三本殿と並んでいます。
こちらは第一本殿。春日大社のお社を江戸時代に移築したものです。第二殿と第三殿は共に室町時代の建築で、大阪市内では最古の建築とのこと。三殿とも国の重要文化財の指定を受けています。
参道や境内に聳える樹齢千年近い楠木が、当地の歴史の古さを語っています。
ところで室町時代の中頃から坂上田広野麿の後裔とされる平野氏の台頭により、杭全庄の荘園管理が平野氏の手に渡り、さらに後に平野氏から起こった庶流の平野七家によって平野は自治都市として発展していきます。平野では戦国時代他からの侵入を防ぐため環濠が築かれ、十三箇所の出入り口には惣門が設けられそこに地蔵尊が祀られていました。写真下はその一つ、環濠の北西にある馬場口地蔵です。あいにく写真がないのですが、環濠も杭全神社の東などに部分的に残っています。平野が自治都市として発展した理由の一つに、冒頭で触れたように大和国と難波を結ぶ竜田道・渋河道が通っていたことが挙げられるのではないでしょうか。
堺がそうであったように、自治都市には独自の豊かな文化を育む土壌があります。平野にもその名残があります。杭全神社社務所奥にある連歌所の建物がそれです。江戸時代の再建ですが、連歌所が現存するのはとても珍しいそうです。
連歌といえば、歩いて旅した東海道の丸子で連歌師宗長のことを少し書きましたが、連歌の集まりは文化交流の場でありながら、政治的な場として使われることもあったかもしれません。連歌が盛んに行われていた土地に秘められた歴史を探ってみたくなります。
平野の町を歩いていたら、ちょうど杭全神社のだんじりに出会いました。あいにく今年の夏祭りは中止ですが、九基のだんじりが集結し祭が最高潮に達するときの熱気は曳き手、観衆ともにすさまじいそうで、河内らしさを存分に味わえそうです。来年はだんじり祭が予定通り行えますように。