かねがね私は生駒山周辺の風土、とりわけ宗教的な風土に惹かれていて、これまでに山上の宝山寺、西麓の石切劔箭神社や天照大神高座神社の様子を投稿しました。以前も書きましたように、生駒山地というのは南北およそ三十五キロにわたって、主に現在の大阪府と奈良県の境界に沿うように連なっています。大阪府に暮らしている私は、奈良に行くとき難波から近鉄電車で行くことが多いのですが、八戸ノ里を過ぎたあたりからでしょうか、高い建物が少なくなるせいか、急に目の前が開け、大阪平野の先端がめくれあがるように正面に連なる生駒山地に吸い込まれていく風景を目にします。
生駒の山並を越えると、これと並行するように矢田丘陵があり、奈良盆地は矢田丘陵のさらに東になりますが、生駒山地と矢田丘陵に挟まれた生駒谷、平群谷の一帯も、生駒山地の西側に劣らず興味深い場所です。以前火祭りの様子を投稿した往馬神社もこの生駒谷にありますし、平群谷には七十近い古墳のほか長屋王の墓とされる墳墓もありで、ここは探訪を重ねるにつれ、面白さが増していく土地ではないかと思っています。ようやく行動に自由がきくようになってきましたので、折を見て訪ねるつもりですが、今日久々の投稿に選んだのは、これまで訪ねる機会の多かった生駒山地の西側、つまり大阪府の東端にあって、生駒山地に食い込むように鎮座する枚岡神社です。
近鉄奈良線の枚岡駅を出ると、目の前に「元春日平岡大社」の表示が立っています。枚岡神社は中臣氏の祖とされる天児屋命を主祭神としてお祀りしています。春日大社創建の際、当社より天児屋命と比売御神(天児屋命の后神、詳細不明)を勧進したことから、元春日ということですが、中臣氏が藤原姓を賜って藤原氏になったことや、枚岡神社も春日大社から経津主命と武甕槌命二柱を勧進したことを思えば、春日大社の方も元平岡ではないかと言いたくなりますが、そのあたりは力関係によるのでしょう。ちなみに石標にある平岡は、古来当社を平岡氏が奉斉してきたことや、『日本の神々3』に古代より平岡と枚岡が併用されていたとあることから、元は平岡だったのでしょう。生駒周辺には中臣氏ばかりか物部氏の足跡も多く、それもまたこの土地に惹かれる理由の一つです。
それはともかく、この表示の後ろに階段が見えるように、ここはすでに生駒山地の裾に入り込んでいます。階段を上がると道を挟んで鳥居があり、冒頭の写真のような新緑がまぶしい参道が延びています。参道脇には、山からの湧き水が音と立てて流れ下っています。水の音を聞きながら緑のトンネルをくぐって山に向かっていくこの参道は、琵琶湖南西坂本にある日吉大社の参道を思わせるところもあり、大好きな参道。一歩一歩踏みしめるように歩いていくと、心が静まるのと同時に高揚するような、なんとも不思議な感じになります。
社伝によれば、神武東征の際、国土平定を祈願して神津嶽の磐境に天児屋根命と比売御神(天児屋命の后神、詳細不明)をお祀りしたことに始まり、孝徳天皇の白雉元年(六五〇)に現在地に遷されたとのことで、さらに宝亀九年(七七八)に経津主命と武甕槌命を春日大社から勧進し、四柱を御祭神として現在に至っています。ここからもわかるように、背後の山・神津嶽の信仰に始まるのが枚岡神社です。
拝殿でのお詣りを済ませ、早速神津嶽へ。神社の後ろは枚岡公園と呼ばれる風致公園になっていて登山道も整備されているので、安心して歩くことができます。
しばらく登ったところで見つけたこちらの石組は、もしかすると祭祀の跡かもしれません。
三十分ほど登ると枚岡展望台に出ます。
この展望台からさらに百五十メートルほど登ったところが神津嶽で、かつては禁足地でしたが、昭和五十六年に石碑が、平成五年には社殿も建てられました。
山中の木立の中では、石の祠の真新しさが浮き立っているように見え、注連縄だけでも十分神域としての聖性は保たれるような気がしましたが、可視化された聖域になじんでいる現代の私たちには、ここにこうして祠を建てることは自然な流れだったかもしれません。お詣りを済ませ来た道を戻ろうとすると、私が登って来た道と反対の方向から、ハイキング姿の夫婦がやってきて、祠に手を合わせていました。ここに来る人の多くはハイカーですが、こうして祠があることで、ついでではあってもお詣りをしていく人がいる。その小さな行為の積み重ねと継続が、この土地の歴史の記憶を伝えていくことにもなるのです。
ちなみに神津嶽に張られている注連縄は、枚岡神社の石段下にあるものと同じ総角(揚巻)結びの注連縄です。総角結びは、古代男子の髪型に由来する結びで、花の形をしています。古代人は紐を花の形に結ぶことで、花つまり自然の生命力をそこに封じ込めようとしたのです。
枚岡神社では毎年十二月下旬にこの注連縄を掛け替える注連縄掛神事が行われますが、注連縄を掛け替えお祓いが済むと、宮司の「あっはっはー」という声に続いて一同大声で「あっはっはー」と社殿に向かって声を発します。それを三度繰り返すと、その後二十分間神職も参列者も入り乱れ、大声で笑い続けるのです。お笑い神事とも呼ばれるのはそのためですが、これは神話の時代、天照大神が天岩戸にお隠れになった際、神々の笑いによって岩戸が開かれたということにちなんで行われているもので、枚岡神社の御祭神天児屋命も布刀玉命(太玉命)と共に占いをしたり、祝詞をあげたりと、岩戸開きに手を貸されていますので、枚岡神社でこうした神事が行われるようになったのでしょう。
新年の幸せを願う予祝ですが、笑いで福を呼び込むというところが大阪人の気質にはぴったりで、毎年多くの人がこの神事に参加するそうです。今年の十二月、この愛すべき珍神事を予定通り執り行えるよう、願ってやみません。