一年前の今日、父は永遠の眠りにつきました。この一年、さまざまなことを経験したこともあって、もう梅の季節になってしまった、時間の経つのはあっという間だったという感覚と、梅の季節がまた巡ってきた、この一年無事に過ごすことができたという感覚が、心の中で混ざり合っています。いま父の仕事をより長きにわたって残すべく、出版作業のまっただ中にいますが、私に課せられた一番の大仕事に目処をつけることができたこともあり、梅を愛でに京都の北野天満宮に出かけました。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな 「拾遺和歌集」
“梅の花よ、東風が吹いたら香りをおこして届けてほしい、主人がいなくなったからといって春を忘れてくれるな”
「流され侍りける時、家の梅の花を見侍りて」という詞書が添えられているこの歌は、菅原道真が大宰府へ左遷される際、大切にしていた梅の木に対して詠んだものですが、道真は延喜三年(九〇三)太宰府で亡くなり、その後都では日照り、落雷などの災害や皇子の病死などが続きました。朝廷はこれを道真の祟りだと恐れ、左遷を撤回したり官位を復活させるなどしていたところ、右京七条に住む多治比文子や近江国比良宮の神官・神良種の幼子に託宣があったことから、天暦元年(九四七)北野の地にあった朝日寺の最珍らが当地に社殿を建て、そこに道真公をお祀りした、というのが京都の北野天満宮に伝わる創建由来です。
もともとこの地は、都の守護を司る乾(北西)にあたり、天神地祇(天地のすべての神々)がお祀りされていた神聖な場所でした。そういう土地に向かって帝は祈りを捧げたのですが、夜当地の上空には北極星を中心に星々を見ることができ、そこから日と月、星の運行が天皇と国家、国民の平和を左右するという三辰信仰に繋がっていったようです。平安時代半ばになって、さらにそこに道真信仰が加わり、北野天満宮の霊験は一層威力を増しました。
三辰信仰というと、昨年当ブログでも取り上げた能勢妙見山や星田妙見宮のことを思い出します。妙見信仰は日本にもたらされるまでの間、道教や仏教、山岳信仰など、さまざまな信仰が混淆していて、私自身到底理解したとはいえない状態ですが、北極星や北斗七星といった星に対する信仰であることはわかります。夜空の中心に光り輝く北極星に、現実の世の中を支配している天皇が我が身を重ね、現実の世の繁栄と安寧平和を天空に祈るという行為は、当時の為政者にしてみれば全身全霊を捧げる重要なものだったはずです。妙見信仰との関係がわからないのですが、三辰信仰は日、月、星に対する信仰ですから、接点はありそうです。天変地異が命に直結していた時代、天空に心を寄せるのはごく自然なことだったように思います。
北野天満宮には梅を愛した道真にちなみ、境内の各所に梅が植えられている他、境内の南に二万坪に及ぶ梅苑があります。
梅苑にはおよそ五十種類、千五百本の梅があり、いまは早咲きの梅が見頃を迎えています。一重もあれば八重もあり、色や大きさもさまざまで、二月の空に照り映えていました。
上を見上げるとメジロの姿も。シャッターチャンスを逃しましたが、ヤマガラもいました。
道真の命日にあたる二月二十五日には梅花祭と野点大茶湯が行われます。その頃にはまた違った梅が見頃を迎えていることでしょう。
ちなみに北野天満宮創建由来に名が出てくる多治比文子は、巫女であり道真の乳母でもあったと言われています。それ以上のことはわからないのですが、多治比と聞いて、大阪の堺にある多治速比売神社の主祭神多治速比売命を思い出しました。この神社については、創建時期も主祭神の女神についても不詳ですが、多治比という名から、古代豪族の多治比氏との繋がりを思わせます。多治速比売神社では現在道真もお祀りされていて、隣接する公園(かつて境内だった土地)でも千二百本もの梅があるそうです。
梅苑の梅はきれいに剪定されていて、昔実家にあった梅とは印象が異なりましたが、中には自由に枝を伸ばした木もあります。私はこういう風に天に向かって枝を延ばす梅に心惹かれます。