石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部光をやはらげ、利益の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、今は八年ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
元禄三年(一六九〇)奥の細道の旅を終えた松尾芭蕉(一六四四~一六九四)は、膳所の義仲寺に滞在していましたが、膳所藩重臣で門人の菅沼曲水(曲翠)の勧めで、四月六日から七月二三日まで、大津の山中にあった庵に四ヶ月ほど滞在しました。そこは近津尾神社がある国分山の中腹で、その庵は元々曲水の伯父の幻住老人(菅沼定知)の隠居所だったことから幻住庵と言われていましたが、幻住老人の歿後荒れ果ててたものを、芭蕉が膳所を訪れたことから曲水は手を入れ、芭蕉が俗世を離れ静かに暮らせるようにと提供したのです。
『幻住庵記』はそこでの暮らしを綴った名文。冒頭の引用はその始まりの部分です。長く厳しい旅を終え、琵琶湖畔の静かな山中に落ち着いた芭蕉は、琵琶湖の伸びやかな風景を前に、湖から吹き抜ける風に身をたゆたえ、心安らぐ日々を過ごしたことでしょう。『幻住庵記』はそうした芭蕉晩年の姿を彷彿とさせる作品。亡き父高橋英夫は『ミクロコスモス 松尾芭蕉に向かって』で「彫心鏤骨の文章で、どの一節も完璧な出来であり、芭蕉の「詩」と「隠」を語り、風雅に身をあずける覚悟を披瀝した名品」と評しています。
曲水が芭蕉と知遇を得たのは、芭蕉が江戸にいた時とされます。初めに引用した文章に「勇士菅沼氏」とあるように、芭蕉は曲水について、ただ者ではない何かを感じていたようで、実際曲水は後に不正を働いた藩の家老を、藩主に累が及ぶのを恐れ私闘に見せかけて殺害し、自らも自決したように、剛胆で篤い忠誠心の持ち主でした。芭蕉は出会ってすぐに曲水の人となりを感じとったわけですから、芭蕉の鋭い洞察力にも驚かされますが、それはともかく、曲水は晩年の芭蕉を経済的な面も含めて助けた一人で、芭蕉も曲水に門弟以上の深い情を抱いていたであろうことが手紙から想像できます。
ちなみに芭蕉は幻住庵を出てから四年後の元禄七年(一六九四)十月、大坂で客死し、遺言により義仲寺の木曽義仲の隣に葬られています。(義仲寺については、歩いて旅した東海道の大津でも触れていますので、よろしければご覧ください)幻住庵の建物は曲水により膳所の中庄に移築され、さらに別保に移され俳諧道場となったそうです。
庵が膳所に移築された後の国分山は、訪れる人も少なく、荒廃の一途を辿っていたと思われますが、それでも芭蕉を慕う人の幻住庵詣では絶えることがなかったとみえ、正岡子規や河東碧梧桐、斎藤茂吉などが、訪問の記を残しています。
そうした中、昭和八年に幻住庵保勝会が発足、本来庵があった場所から二十メートルほど離れたところに昭和十年に再建されましたが、老朽化のためにその後取り壊され、平成三年に再度再建され現在に至っています。
ちなみにこちらが近津尾神社。
境内を抜けたところに幻住庵跡の碑。芭蕉が暮らした庵はここにありました。
再建された幻住庵は、この奥に見える階段を上がった先にあります。
幻住庵を訪ねるのは今回が二度目です。最初のときは、再建間もないころで、真新しい佇まいに少々違和感を覚えましたが、およそ四半世紀の時の流れが門や庵にほどよい風情をもたらしていたのと、芭蕉という存在への私自身の対し方が変化してきたこともあり、ああここで、晩年の芭蕉が旅の疲れを癒やし、静かなときを過ごし、言葉を紡いだのだなと、しみじみ感じ入るものがありました。
今回の再訪で得た収穫は他にもあります。それは北側の駐車場から山を登っていったおかげで、この山の自然に触れることができたことです。
道は整備されていますので歩きやすいですが、鬱蒼とした木立の中、水の音、野鳥の声などに耳を澄ませながら上っていくにつれ、芭蕉がここを気に入り、四ヶ月にわたり滞在した理由が何となくわかったような気がしました。
水の音を辿っていくと、湧き出る清水の源を見つけました。「とくとくの清水」と名付けられたこの清水を、芭蕉は体調の良いときに自ら汲みに来て、炊事に用いました。『幻住庵記』にもこう記されています。
たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲て自ら炊ぐ。とくとくの雫を侘て一炉の備へいとかろし。
とくとくの清水といえば、芭蕉が敬愛する西行が、吉野山中の西行庵近くで詠んだ歌と、西行を偲び苔清水を訪ねた芭蕉が吉野で詠んだ歌が浮かびます。
とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住居かな 西行
露とくとく試みに浮き世すすがばや 芭蕉
西行と芭蕉では五百年近い隔たりがあります。そして芭蕉と現代では、三百年と少し。薄暗い山中に湧き出る清水に手を浸していると、トポスを介することで時間感覚がいかようにも変質する不思議を体感しました。
幻住庵に腰を落ち着けた芭蕉は、必ずしも万全の体調ではなかったようですが、山といってもゆっくり上っても十分ほど、長旅の疲れを癒やすのに、この程度の軽い運動はむしろ有益だったでしょう。また北側の道を隔てた別の山には大師堂という聖徳太子をお祀りするお堂があり、山上からは琵琶湖や三上山が一望できます。幻住庵からは、おそらく当時も琵琶湖は望めなかったはずで、芭蕉は国分山を下り、向かいの山に上って、この眺望を楽しんだと思われます。
上の写真から少し左に視線をずらしたこちらの写真には、近江大橋と琵琶湖が写っています。ここに来る前に滞在していた義仲寺は近江大橋の西(写真では左)にあります。もしかしたらそれも視界に捉えることができたかもしれません。
『幻住庵記』は次の句で終わっています。
先づ頼む椎の木も有り夏木立
写真がうまく撮れませんでしたが、左がその句碑で、幻住庵跡の碑の近く、社務所脇にひっそりと置かれています。
これについて先にも触れた『ミクロコスモス』で父が記した文章を最後に引用させていただきます。
ここに横たわっている、句碑とも言えないようなその石が、比較的近年のものだったとしても、何か心を打つものがここにはある。それは、ここにおける芭蕉の隠棲の日々には、『幻住庵記』が伝える通りの精神の高さが湛えられたいるのだと、たしかに信じうるからである。私は、他の芭蕉遺跡の賑わいとは対照的に、幻住庵跡のさびれた空間に、芭蕉の見えない生命の顫動を感ずることができると思った。(第八章 一期一会の知者 Ⅲより)
先ほどとくとくの清水のところで感じたトポスは、いまこの句碑の前で、父と私をつなぐトポスとなりえたような気がしています。