大阪梅田から南に一キロ半ほど、中之島に近い中央区北浜に、日本に唯一現存する蘭学塾の遺構・適塾があります。適塾は昭和十五年(一九四〇)に国の史跡に指定され、昭和三十九年(一九六四)には建物が重要文化財になっています。
適塾を開いたのは、江戸時代後期の蘭学者で蘭方医の緒方洪庵(一八一〇~一八六三)です。
洪庵は備中国足守藩士の三男として生まれ、文政八年(一八二五)十五歳のとき足守藩大坂蔵屋敷の居留守役になった父と共に大坂へ出、翌年に中天游の私塾「思々斎塾」に入門し、四年間蘭学や医学を学びます。さらに天保二年(一八三一)天游の勧めで江戸に出て坪井信道や宇田川玄真にも学び、翻訳も手がけるなど勉学に打ち込みました。
天保九年(一八三八)大坂に戻った洪庵は、津村東之町(現在の中央区瓦町)に医業を開き、同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」も主宰。開業二年目には浪速医者番付で東の前頭四枚目になるほど繁盛し、入門者が増えて手狭になったことから、弘化二年(一八四五)過書町で商家を購入し、移転しました。それが現存する適塾です。
ここに移転した翌年の弘化三年(一八四六)には大村益次郎が入門したのを皮切りに、多くの若者が適塾で学び、洪庵の薫陶を受けています。姓名録によると、全国各地から多くの若者がここに集まったことがわかります。閉鎖されるまでの二十五年の間に千人近い若者が学んだようです。
主な門下生は、日本赤十字社創設者の佐野常民、統計学の杉享二、初代衛生局長・長与専斎、幕末の志士・橋本左内、慶應義塾創設者の福澤諭吉など、そうそうたる顔ぶれ。洪庵は優れた教育者でもありました。
上は二階の塾生大部屋です。福沢諭吉などもここで学んだのでしょうか。
洪庵はここ適塾で、嘉永二年(一八四九)日本語による最初の病理学書『病学通論』を著したほか、安政五年(一八五八)ドイツ人医師フーフェラントの『扶氏経験遺訓』を翻訳出版しています。
当時は天然痘流行が脅威だったことから、嘉永二年には大坂古手町(現中央区今橋三丁目)に除痘館を開き、牛痘種痘法による切痘を開始。牛痘種痘は牛になるという迷信が広まり、治療費を取らずに接種してもらうなど、普及には困難がありましたが、やがて洪庵の活動を幕府が公認し、牛痘種痘法が免許制になりました。また安政五年(一八五八)のコレラの流行時にはいちはやく治療方針を示すなど、洪庵の活動は予防医学と公衆衛生学の先駆けであったことがわかります。
文久二年(一八六二)洪庵は幕府からの江戸幕府奥医師、西洋学問所頭取就任の要請を受けて江戸に移り、翌年客死、明治元年(一八六八)に適塾も閉鎖されましたが、明治二年に大阪府が設立した仮病院・医学校に、洪庵の嗣子・緒方惟準や養子の拙斎らが加わり、それが後に変遷を経て現在の大阪大学医学部になったことから、適塾は現在大阪大学が管理しています。(昭和十七年に緒方家から大阪帝国大学に寄付されています。)
適塾に一冊しかなかった蘭和辞典の順番待ちのため、夜中灯りが消えることがなかったとか、「学問上のことについては、ちょいとも怠ったことがない」(福沢諭吉『福翁自伝』)とか、塾生たちの熱心な勉強態度についていくつか逸話が残されています。
時代の転換期にあって、新しい日本を創っていこうとする若者たちそれぞれの能力を受け止め、伸ばし、開花させた緒方洪庵。その足跡を知る場所として、大阪のビルの狭間に残る適塾はこの上なく貴重な史跡に思えます。