紅葉狩りに出かける余裕のないまま、気づけば師走になっていました。とはいえ、日常のそこかしこで木々の色づきに眼を留める機会は多く、それなりに季節の移ろいを感じていましたので、今年はこれで良しとしようかと思っていたのですが、諸々の用事が一段落した先日、物は試しと京都西山の光明寺に行ってみたところ、境内の至るところが今なお深紅や黄金色に染まり、秋を名残惜しむような木々の饗宴に時を忘れ、見入りました。
光明寺があるのは京都西山連峰の一つ、小塩山の支峰烏ヶ嶽で、山に食い込んだ広大な寺域に多くの伽藍が連なっています。西山浄土宗の総本山で、お寺の創建は建久九年(一一九八)。法然の弟子の蓮生(熊谷直実)が法然ゆかりのこの地にお堂を建てたことに始まると伝わります。その際蓮生は、法然を勧進して落慶法要を営み、法然を開山一世とあおぎ、自らは二世となり、法然から念仏三昧院の院号を与えられました。
粟生が法然に縁の地というのは、次のような言い伝えによります。
法然二十四歳のときのこと、比叡山を下り、師を求め奈良に向かう途中で、法然は粟生の村役の家に一晩宿を借ります。その際、家主は法然の真摯な求法の精神を見抜き、誠の教えを見出した際にはまずここでその教えを説いてほしいと願い出ました。それから二十年、浄土宗を開いた法然は、そのときの約束を果たすべく、粟生の地で最初の教えを説いたということです。
南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行くことができるという教えは、瞬く間に広まりましたが、それが誤解や嫉みを生み、法然は晩年奈良や比叡山による迫害を受け、法然入滅から十五年後の嘉禄三年(一二二七)には、東大谷にあった法然の墓が暴かれ、遺骸が鴨川に捨てられそうになりました。その際弟子たちが遺骸の石棺を嵯峨から太秦を経て当地に運び込み、翌年荼毘に付して、裏山に御廟堂が建てられたのですが、石棺が太秦にあるとき、そこから南南西に向かって数条の光が放たれ、粟生に達したそうで、その噂を伝え聞いた四条天皇より光明寺の勅額を賜ったと言われています。
石垣の中にあるのがその石棺で、法然の御本廟は本堂に相当する御影堂の西側、境内でも一番高いところにあります。
御本廟には立ち入ることができず、御影堂の外廊下からその石垣を目にするだけですが、承安五年(一一七五)浄土宗を開いたばかりの法然が、初めて念仏の教えを説いたこの地にまた戻ってこられたのですから、土地がもたらす縁を感じずにはいられません。(法然の廟は知恩院、黒谷の金戒光明寺、嵯峨野の法然寺にもあります)
光明寺の歴史はこの辺にして、錦に染まる境内の様子をご紹介しましょう。
総門をくぐると緩やかな長い表参道の石段が続きます。赤や黄色に染まった木々が石段を染めています。
石段を上りきると、正面に御影堂が現れます。宝暦三年(一七五三)の再建。ここには法然自らが作ったと伝わる張り子の御影がお祀りされています。
御影堂の右奥に進むと、そこに先ほど触れた石棺が置かれ、さらに奥に阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂の建物は寛政十一年(一七九九)の再建です。ここにお祀りされている阿弥陀如来像は、蓮生が近江国堅田の浮御堂から背負って持ってきたと言い伝えられているそうです。ちなみに蓮生といえば、東海道の取材中藤枝宿で立ち寄った蓮生寺のことを思い出します。建久四年(一一九三)法然の弟子となった蓮生は、京から鎌倉に行く途中の藤枝で、寺を開いたのです。(蓮生寺について「歩いて旅した東海道 藤枝」で触れていますので、よろしければご覧ください。)
渡り廊下の階段を下りると、方丈にあたる釈迦堂に出ます。こちらは釈迦堂前の庭で信楽庭と呼ばれる石庭。十八個の石は阿弥陀如来の慈悲に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を現しているのだそうです。
書院の裏手に回り込むと、輝くような一本が。
一通りの拝観を終え、帰りの参道に入ると、そこはご覧のような見事な紅葉の道でした。
雲間から射し込む光を受け、黄金の紅葉は神々しいまでに輝いていました。