前回投稿した総見寺で、ルイス・フロイスによる『日本史』の一節をご紹介しました。戦国時代に宣教師として来日したフロイスは日本におけるキリスト教布教史を書くよう依頼され、十年以上の歳月をかけ三巻からなる膨大な記録を残しました。それが『日本史』です。この著作は、ザビエルが来日しキリスト教を広めた頃から四十数年にわたる日本の記録で、本来の目的だったキリスト教の布教史のみならず、信長や秀吉ら戦国武将の動向や庶民の暮らしまで詳細に記されているため、当時を知る史料として大変貴重です。
その『日本史』第五章に次のような記述があります。
堺の付近を和泉の国(と称するが)、その彼方には、国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している紀伊の国なる別の一国が続いている。そこには一種の宗教(団体)が四つ五つあり、そのおのおのが大いなる共和国的存在で、昔から同国ではつねにその信仰が盛んに行われて来た。いかなる戦争によってもこの信仰を滅ぼすことができなかったのみか、ますます大勢の巡礼が絶えずその地に参詣していた。
フロイスの眼に「共和国的存在」と映った四から五の宗教団体の筆頭は言うまでもなく高野山ですが、三番目にあげているのが、今回取り上げる根来寺です。(ちなみに以前取り上げた粉河寺もこの中に入っています)
根来寺は粉河寺から西に十キロほどの、紀ノ川の下流域にあります。真義真言宗の総本山で、背後に山を抱いた広大な境内には、最盛期だった室町時代の後半、七十二万石の寺領に四百五十もの僧坊(一説には二千七百とも)を構えていたと伝わりますが、根来衆と呼ばれる一万を超える僧兵が秀吉軍と敵対したことから、天正十三年(一五八五)秀吉による根来攻めに遭い、伽藍の大半を焼失しました。
江戸時代に紀州徳川家によって再興され、現在に至っていますが、運良く焼失を免れたものもあります。
筆頭は大塔です。天文十六年(一五四七)頃に完成したと考えられ、基部には秀吉に攻められた際の火縄銃の弾痕が残っています。木造大塔としては最大最古で国宝に指定されています。大塔の内陣には、大日如来を中心とした曼荼羅を立体的に表現すべく、四仏四菩薩がお祀りされ、荘厳な空間となっています。
大塔の横に見える大師堂も焼き討ちを免れた貴重な建物。明徳二年(一三九一)頃の創建と言われています。
順序が入れ替わりましたが、石段を上り最初に見えるのがこちらの大伝法堂です。こちらは江戸時代後期の再建。
いわゆる本堂にあたる建物で、堂内にお祀りされているのは大日如来を中心に、向かって左に金剛薩埵像、右に尊勝仏頂像の三尊で、国の重要文化財に指定されています。大日如来は密教における全知全能の仏で、金剛薩埵は大日如来の教えを衆生に伝達する役目の菩薩、尊勝仏頂は天子の災いを除く絶大な効能のある尊勝仏頂陀羅尼経を説く仏です。三メートルを超える三尊は大変な迫力で前に立つ拝観者に迫ってきますが、この三尊配置は根来寺だけに見られるもので、伽藍配置も含めて創始者の理念を表していると言われています。
境内の見所はまだ続きますが、これら三つの建物のある開けた空間が、根来寺の創建時期に思いを致す最適な場所に思えますので、ここからは平安時代の末に時間を巻き戻し、根来寺の始まりに眼を向けてみます。
弘仁七年(八一六)空海が嵯峨天皇から高野山を賜って以来、高野山は真言密教の聖地として日本の仏教において大きな位置を占めてきましたが、空海亡き後時代を経るにつれて腐敗衰退を余儀なくされていました。長承元年(一一三二)空海の教えが人々の救いになるようにと、高野山の復興を発願したのが、肥後国に生まれ京都の仁和寺で出家し、二十歳のとき東大寺で受戒し、その後高野山に入った覚鑁でした。覚鑁は鳥羽上皇の庇護のもと、現在金剛峯寺の本坊があるあたりに、高野山で廃絶していた法会の再興をはかり、学問探究のための大伝法院を建立しました。
同じころ、覚鑁は紀ノ川に近い根来の地周辺に荘園と豊福寺も賜っています。この豊福寺が大伝法院の末寺となり、後に大伝法院の寺籍が移され、現在に続く根来寺として発展することになりますが、いずれにせよ高野山の大伝法院はたちまち金剛峯寺を凌ぐほどに発展し、大伝法院建立の二年後に覚鑁は金剛峯寺の座主に就任、高野山全体を主導するまでになりました。
けれども、堕落した高野山にあって、覚鑁は僧侶たちから強く反発され高野山は大混乱に陥り、保延六年(一一四〇)には覚鑁の住坊を含む建物が焼き討ちされるという事件が起こります。これ以上の混乱は避けたいとの思いから、覚鑁は高野山を下りて豊福寺に入り、新たに神宮寺と円明寺を建てて伽藍の整備を計りますが、康治二年(一一四三)完成したばかりの円明寺で、覚鑁は四十八年の生涯を閉じました。
覚鑁は空海に比べ一般的に広く知られる存在ではありませんが、根来寺の開祖としてだけでなく、空海亡き後の高野山を再興し、空海以来密教哲学を打ち立てた唯一の存在として大変立派な業績を残した方です。そうした覚鑁の教えは、覚鑁入寂後も弟子たちによって受け継がれ、一世紀以上経った鎌倉時代に大伝法院の学頭だった頼瑜が覚鑁の起こした伝法会を精励し、教えを著作にまとめたことで、体系化されたその教えを求め、全国各地から僧が根来寺に集まるようになりました。(頼瑜の時代に、根来の地に大伝法院の本拠が完全に移ったようです)
覚鑁の教えを求め各地から僧侶が集まる根来寺は、僧侶が仏教の教えを修学伝授し、僧の資格を得る、今でいう大学のような役割を担っていたと考えられ、十五世紀から十六世紀にかけて根来寺の勢力は最高潮に達したようです。
冒頭に引用したフロイスの『日本史』の一節は、ちょうどそのころの根来寺を捉えたもので、十六世紀ベルギーの地理学者オルテリウスによって作成された世界初の近代的世界地図帳「世界の舞台」にも、Negruとして根来寺が記されているように、その偉容はヨーロッパにも届いていました。
根来寺はその後根来衆と呼ばれる一万を超える僧兵を擁するようになり、秀吉軍による根来攻めで勢いを止められたのは、最初に書いた通りです。
ちなみに、鎌倉時代頼瑜の教えを求め各地から根来寺に集まってきた僧の中に、以前このブログでも取り上げた河内長野の金剛寺の学頭禅恵がいました。禅恵は根来寺での伝授を細かく記録し、それが長らく金剛寺文書として金剛寺に秘蔵されていたのですが、大正になって公にされたことで、それまで謎に包まれていた鎌倉時代の根来寺における伝授の様子が明らかになりました。
根来寺の歴史は栄枯盛衰、激動の歴史の波をくぐりぬけて今があります。高野山を再興しようと情熱を傾けた覚鑁、その教えを著作として残した頼瑜。彼らの信仰や思想が目に見える形になっているこの場所で、しばし時を過ごしました。
御廟の西には本坊があり、光明殿と本坊の間には池泉式蓬莱庭園の池庭(江戸時代の庭で国の名勝)が拡がります。
現存する建物は他にもあり、ゆっくり拝観していると一時間はあっという間ですが、最盛期の根来寺からすると、その規模は数割程度でしょう。多くの僧が集い学んだ最盛期の根来寺の偉容に思いを巡らせました。