のびやかな平地が続く湖東に車を走らせていると、標高二百メートル弱の安土山が見えてきます。天正四年(一五七六)、織田信長が天下統一の足がかりとして山上に安土城を築いたことはあまりにも有名で、五層七重の絢爛豪華な天守を持つこの城に信長は起居していたとされますが、城は本能寺の変の後に謎の出火で焼失、秀吉の時代に廃城となり、現在は石垣を残すのみになっています。
上の写真は大手道。織田信長を筆頭に、羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀…といった戦国武将たちも踏みしめた石段は一直線に山上へと続き、その両側に堅牢な石垣が続いています。
今回取り上げる總見寺は、安土山南の百々橋から北に二百メートルほどの山腹に信長によって建立されたお寺です。正確な創建時期はわかりませんが、安土城の築城が始まった天正四年から九年の間ではないかと考えられています。短期間で壮大な伽藍が完成したことになりますが、それを可能にしたのは、ほとんどの建物を近隣から移築してきたからです。三重塔は石部(湖南市)にある長寿寺から移築したもので、享徳三年(一四五四)の建立です。ちなみに長寿寺は常楽寺、善水寺と共に湖南三山と呼ばれる名刹。(歩いて旅した東海道の石部や、寄り道東海道でも触れていますので、ご関心のある方はどうぞご覧ください。)
創建当初は真言宗で、開山間もない頃は織田一族が住職を務めていましたが、江戸時代の寛文八年(一六六八)に臨済宗に改宗し妙心寺派の末寺になり現在に至っています。
安土城が焼失した際、總見寺は難を逃れ、江戸時代には二十棟以上の建物を擁し法灯を守ってきましたが、嘉永七年(一八五四)の火災で本堂などの中枢伽藍が灰燼に帰し、現在總見寺跡地に残るのは三重塔と仁王門のみとなりました。
本丸跡へと通じる道からはずれ、ひっそりとした石段を上った先が總見寺跡地です。
まず目に飛び込んでくるのが三重塔。本堂跡地の先には西ノ湖の風景が拡がっています。
西ノ湖は、戦後の食糧難対策のため大中湖を干拓した際に残された内湖です。ということは、今見る眼下の風景は歴史的には新しいもので、信長が安土山に城や總見寺を築いた当時、安土山は麓に拡がる内湖(伊庭内湖と弁天内湖)に突きだした半島のようで、眼下に見下ろす内湖の風景はそのまま大中湖を経て琵琶湖へと繋がっていました。水運の拠点としても、防衛に優れた要塞としても、大中湖(琵琶湖)に接したこの場所は天下統一を狙う信長にとって理想の地だったでしょう。
信長はこの風景を望む場所に本堂を置きましたが、それは普通の寺院の本堂とは違い、特殊なものでした。「安土城同様信長の思想を体現するための施設でもあった」と先ほど書いたのはそのためです。
ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』第三巻五十五章にこんな記述があります。
神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、信長は、予自らが神体である、と言っていた。しかし矛盾しないように、すなわち彼への礼拝が他の偶像へのそれに劣ることがないように、ある人物が、それにふさわしい盆山と称せられる一個の石を持参した際、彼は寺院の一番高所、すべての仏の上に、一種の安置所、ないし窓のない仏龕を作り、そこにその石を収納するように命じた。さらに彼は領内の諸国に触れを出し、それら諸国のすべての町村、集落のあらゆる身分の男女、貴人、武士、庶民、賎民が、その年の第五月の彼が生まれた日に、同寺とそこに安置されている神体を礼拝しに来るように命じた。諸国、遠方から同所に集合した人々は甚大で、とうてい信じられぬばかりであった。
信長は自らを神とし、その化身たる盆山と呼ばれる石を、本堂の御本尊の上にお祀りしていたというのです。フロイスはそうした信長の行を「途方もなく狂気じみた言行と暴挙」と記していますが、比叡山や本願寺を壊滅的な状況に追い込み、宗教の勢力図を書き換えた信長の思想は、總見寺の本堂に置かれた盆山によく現れているように思います。
フロイスが書いているように、盆山は御本尊より高い位置にお祀りされていたということなので、本堂は二階建てだった可能性がありますし、本堂自体三重塔より石段十数段分高い場所に建っていたと思うと、盆山は總見寺の中でも最も高い場所に置かれ、壮大な伽藍を見下ろしていたのではないでしょうか。見下ろすということでは内湖と琵琶湖の風景もそうで、それはつまり天下統一の思想そのものという感じがします。
總見寺跡地に足を踏み入れたとき、三重塔や仁王門の偉容に圧倒されはしたものの、安土山にしみついた、あるいは地中からわきあがってくるような、長い時間を経た祈りの気配があまり感じられませんでしたが、おそらくそれは總見寺における信仰が信長による人為的で強制的なものだったからで、もし跡地に本堂が再建されたとしてもあまり変わりはないかもしれません。
ここは聖地ではなくモニュメントなのです。
本堂は史料が少ないこともあって復元には至っていませんが、お寺としては存続していますので、大手道右手の家康邸跡に、昭和八年京都御所の建物を移築して仮本堂となっています。
須弥壇には御本尊の十一面観音像がお祀りされ、向かって左に信長の坐像もありました。十一面観音は室町時代のものとのこと。本堂を他所から安土に移築する際一緒に持ってこられたものなのでしょうか。本堂焼失の際には御本尊だけ難を逃れたのでしょうか。詳しいことがわかりませんが、現在仮本堂となっている場所で、中心にお祀りされているという当たり前のことに、少しほっとしました。