三重県と奈良県の境にある大台ヶ原に発し、中央構造線に沿って紀伊半島を横断するように紀ノ川(奈良県内は吉野川)が流れています。川は古来重要な交通路でもあり、とくに古代においては外からの様々な文化や物、人が川を通じて列島各地に拡がっていきました。以前東海道を歩いているとき、富士川、安倍川、大井川、天竜川といった川もまた南北の交通路であることを認識させられましたが、紀伊半島を横断する紀ノ川も同様です。ただ紀ノ川は、三輪山の麓に初期ヤマト王権があった時代から列島の西側、さらには列島を越えた世界との交流を担う重要な道でしたので、歴史の厚みの点で、他の川とは一線を画しています。(大和川も同様にヤマト王権との重要な交通路でしたが、大和川の難波津が整備されるのは紀ノ川河口の開発より少し後なので、最初期のヤマト王権における交通路ということでは紀ノ川の歴史の方が古くなります。)古代この川を管理していたの紀氏や葛城氏で、両氏はヤマト王権の外交や軍事の面で大きな役割を担ったと言われています。葛城氏の本拠地は奈良盆地の西、葛城山麓ですが、そこに至るにも交通路として紀ノ川の存在は重要でした。
紀ノ川は興味の尽きない川ですので、また別の機会にじっくり向き合いたいと思いますが、今日はその紀ノ川沿いにある古刹・粉河寺のことです。
粉河寺は西国三十三所の第三番札所で、天台宗系の粉河観音宗の総本山です。那智の青岸渡寺に始まり、紀伊半島を横断するように熊野古道を西進し、紀伊半島西側に出たところが第二番札所の紀三井寺、そこから紀ノ川に沿って三十三キロほど紀伊半島内部に戻ったところに第三番札所の粉河寺となります。もしこの通りに歩いて参詣したなら、その難儀な道のりを補って余りある印象深い風景に出会い、より一層巡礼にありがたみが増すでしょう。私は折を見て一寺ずつの参拝、粉河寺へも車で行きましたが、初めて訪ねる紀ノ川沿いは、心なしか陽光が南国的で力強く、北は和泉葛城山、南は紀ノ川対岸に聳える龍門山というように、川と山両方の風景を堪能できるまさに山紫水明の地であることを実感しました。
粉河寺の創建由来は、「粉河寺縁起絵巻」(国宝 現在は京都国立博物館に寄託)によって伝えられています。それによると、宝亀元年(七七〇) 猟師の大伴孔子古が狩の際光り輝く土地を見つけ、そこに草庵を結んだことに始まるということですが、絵巻には次のような千手観音の霊験説話も見られます。
河内国の長者の娘が重い病で明日をも知れぬ命だったとき、童行者が現れ千手陀羅尼を誦して祈祷したところ、娘の病が癒えたことから、長者が御礼にと財宝を渡そうとしますが童行者は受け取りません。代わりに娘の提鞘と緋の袴だけを受け取り、「紀伊国那賀郡粉河の者だ」と告げて立ち去りました。翌年長者一家が粉河を訪ねると、米のとぎ汁のような白い川のほとりに庵があり、そこにお祀りされていた千手観音の手に提鞘と緋の袴があったことから、童行者は千手観音だったと知り、長者一家はその後寺の発展に尽くしました。
こちらの図は、長者一家が粉河へ向けて旅立つ場面です。
先ほども触れたように、粉河寺の北には古来信仰の山として崇められ葛城修験の聖地だった和泉葛城山が連なっていますので、粉河寺に伝わるこれらの霊験譚は古くからの山の信仰に発するものではないでしょうか。とすると、当地の聖地としての始まりは、寺伝にある奈良時代よりもっと古いかもしれません。
ちなみに粉河寺の山号は風猛山といい、「かざらぎさん」と読みます。これは北背に聳える和泉葛城山に由来するものでしょう。こうしたところにも葛城山との繋がりが感じられます。
いずれにせよ、粉河寺は平安時代以降天皇家や貴族に崇敬され繁栄、鎌倉時代には四キロ四方の広大な境内地に五百を越える僧坊を有する大寺院になりましたが、天正十三年(一五七三)豊臣秀吉による紀州征伐で根来寺同様粉河寺も多くの堂宇と寺宝を焼失しました。粉河寺縁起絵巻もその際戦火に遭い、焼損しています。その後も幾度か火災に遭い、現在の建物は正徳三年(一七一三)以後再建されたものですが、紀州徳川家の庇護もあり、現在目にする堂宇は力強く堂々とした印象です。
早速境内に入ってみましょう。
紀ノ川に架かる竜門橋のあたりから、長屋川と呼ばれる支流が北に向かって流れています。その流れに沿って一キロ半ほど北に行ったところで朱色の大門に迎えられます。威風堂々たる三間の楼門。金剛力士像は春日仏師によると言われます。宝永四年(一七〇七)の再建、国の重要文化財です。古い写真を見ると黒っぽい門なので、朱色に塗り直されたのは最近なのでしょう。
この鮮やかな朱の大門をくぐると、東に向きを変える長屋川に沿って、参道も東に向かいます。
参道の向かって左には本坊や童男堂、念仏堂、太子堂などが南を向いて建ち並んでいます。写真下は千手観音が姿を変えたという童男大士をお祀りする童男堂。堂内の拝観はできませんが、内陣の格天井や欄間に豪華な装飾が施されています。ちなみに本坊も拝観不可。
川に沿った明るく開放的な参道を進むと、石段の上にそびえ立つ中門(冒頭の写真)の前に出ます。天保三年(一八三二)の再建、こちらも国の重要文化財です。中門の左右両面には四天王像がお祀りされ、「風猛山」の扁額は十代藩主・徳川治宝の筆によるそうです。門の大きさとしては、標準的な規模ということですが、実際この場に立つと、豪壮な雰囲気に圧倒される思いがします。
その感覚は、この中門をくぐるとさらに強まります。それは本堂とその前段の左右に築かれた類を見ない石庭のためです。
境内は北に向かって高くなっていく地形で、本堂へは十数段の石段を上がることになります。石段の両翼の崖地は、通常なら石垣によって土留めの処理がなされるでしょうが、粉河寺では十メートルほどのその段差を利用して枯山水庭園が造られているのです。巨石の間に蘇鉄、皐月、柏槇といった樹木を匠に配した石庭は、垂直方向にダイナミックな拡がりを見せ、石庭の背後にのぞく壮大な本堂の屋根と共に、見る者に迫ってきます。
石庭で一番目を惹くのが、滝に石橋を渡したこの辺り。これは宋の画家・玉澗が描いた山水図にならい、二つの築山の間から滝を落とし、そこに石橋を高く掲げる玉澗流と言われる手法によっているそうです。
通常石庭は水平方向奥に向かって拡がる空間に造られていて、私たちはそれを座敷に座った姿勢で見ますが、粉河寺では、垂直方向に拡がる石庭を様々な場所、様々な角度、様々な距離で見ることができ、その躍動感を目の当たりにします。精神性と抽象性が張り詰めた静的なイメージの枯山水が、粉河寺では動的なものに感じられます。
遠くの山を表現したこちらの遠山石。天を突くような緊張感漲るこの辺りも見事です。
用いられている石は、雑賀崎の青石、琴浦の紫石、竜門山の竜門石(蛇紋岩)など、近隣で採れたものが多いそうです。春は豪快な石組みの間で皐月が彩りを添え、また違った趣きになるでしょう。国指定名勝。本堂の再建が享保五年(一七二〇)なので、この庭もほぼ同じ頃でしょうが、庭の原型は上田宗箇の作ではないかということ。確かなことはわかりませんが、桃山時代の豪壮な雰囲気をよく伝えています。
両翼の石庭の間にある石段を上がると、本堂が真正面にそびえ立っています。
西国三十三所の中でも最大規模という本堂(国の重要文化財)。その大きさもさることながら、重層的で動きのある屋根に目が行きます。参拝者が手を合わせる礼堂と呼ばれる外陣部分と、御本尊(秘仏)をお祀りする正堂と呼ばれる内陣部分が、それぞれ高さの異なる屋根を持ち、そこに千鳥破風や唐破風が付いているというもので、八ツ棟造りと呼ばれるそうです。
堂内も印象的。外陣の天井付近には、数多くの講の名を記した額やお札で埋めつくされ、長きにわたり粉河寺に参拝に訪れた人々の思いにも圧倒されます。内陣にお祀りされている御本尊の千手観音は秘仏ですが、薄暗い堂内の正面に二十八部衆、左側には弁財天、不動明王、大日如来、鬼子母神、右側には閻魔王尊、十六羅漢が…という具合に多くの仏像がお祀りされ、荘厳な雰囲気に満ちていました。
境内は奥に行くに従って山に潜り込むような地形で、そこには産土神をお祀りする神社や塔頭の十律禅院、行者堂などがあります。おそらく始まりは山の信仰だったのでしょう。それが時代を経て山麓に壮大な伽藍を持つ大寺になり、現在に至っています。途中、歴史に翻弄され大打撃を被ったこともありますが、再起した姿は豪壮勇猛で、訪れる者の胸に迫ります。
信仰の力強さを感じた粉河寺でした。