私は関西に住んでいますが、父は東京の人でしたので、いままさに新盆です。
関西では月遅れの八月がお盆のため、七月では全くといってよいほどお盆の気配がなく、スーパーなどでお盆用品を見ることはありません。それはわかっていたことで、だいぶ早い時期に新盆を迎える準備を整えていましたから問題なくお盆を迎えていますが、東京大阪間を数えれないほど往復し、私の感覚としてもはや指呼の間にある二つの土地が、いまの時期、片やお盆、片や三連休だ祇園祭だと、全く異なる様相を見せているのを目の当たりにすると、少し不思議な感じがします。今年はとりわけお盆を意識するためでもありますが、これだけ情報が瞬時に伝達する時代でも、土地に根付いた慣習は容易には変わらないのだなという思いを改めて抱いています。
とはいえ、お盆を感じる風景が関西の意外なところにありました。
広大な池を埋めつくす蓮。傘になりそうなくらい大きな葉の間から、ピンクの花が夏の空に向かって一つまた一つと開いていきます。
蓮の花が開くとき、ぽんと音がする。誰が言ったのか、そういう話を耳にしますが、実際そういうことはないのだそうです。それでも、今にも開きそうな蕾みを見ていると、はじける音が聞こえそうな気がして、その場から立ち去りがたくなります。
ここは大阪府北部、万博記念公園内の蓮池です。およそ千九百坪の広大な池を埋めつくす蓮は、二十七品種、千二百株。大きさも色もさまざまです。
泥の中からまっすぐに茎を伸ばし、凜とした花を咲かせる蓮。真水では大きくきれいな花は咲きません。泥が濃ければ濃いほど、大輪の花を咲かせるというあたり、人の人生にも通じるところがあり、仏教において泥は煩悩、開花は悟りにたとえられ、死後の極楽浄土に咲く花とされています。
蓮は開花と同時に実が出来る不思議な花です。そして蓮の命ははかない。
一日目、日の出と共に蕾みが開き、九時過ぎには半分ほどのところで閉じてしまいます。
二日目、日の出と共に開花、一日目より大きく開き、昼ごろまた閉じます。
三日目、日の出と共に開花、二日目よりさらに大きく開きますが、少しずつ外側の花びらが散り始め、昼にはまた閉じます。
四日目、花びらが散り、実の元である花托がむき出しになります。
これから咲く蓮があれば、盛りの蓮がある。散りかけた蓮があれば、花托が向きだしになった蓮がある。
大きな蓮の葉を見ていると、ゆったりと時が流れているような気分になりますが、花は猛スピードで一生を駆け巡り、新しい命への橋渡しをしています。宇宙的な視点に立てば、人の一生も蓮の花のように一瞬のこと。長くて短いのが人の命です。やるべきことを丁寧にやり、いずれ同じ浄土の蓮の上で再会できたらいい。
清浄な気持ちになったお盆の朝でした。
余談ですが、来年は象鼻杯をいただいてみたいと思っています。