思い描くテーマに沿って取材を重ねていく過程で、脇道に逸れることが時々あります。その多くは偶然の成り行きですが、メインテーマで行き詰まったときや気分的体力的に体が言うことをきかないときに、意図的に道から外れてみるということもあり、案外それが面白いのです。表向き関係がなさそうなことでも、意外なところで役に立つということがありますし、何より気分転換になります。
意図的な寄り道は、そのときのお天気や体力・気分で決めますが、いつしかそういうときの行き先の一つとして西国三十三所が加わりました。理由は単純です。何の気なしにこれまで行ったことのあるお寺に印をつけていたら、すでに半分近くを訪問済みだとわかったからです。それならばいっそのこと全部を制覇したい。幸い私は現在関西に住んでいます。山奥にあるなどして気軽に行けないお寺もありますが、東京から行くことを思えばはるかに簡単です。西国三十三所は私の中でメインテーマにはならないかもしれませんが、寄り道のテーマには申し分ありません。
亀岡にある穴太寺も、そんなことで訪ねた一つです。
亀岡というのは京都の町中から西に電車で三十分ほど、京都府の中西部に位置しています。京都観光で人気の保津川下りや渓谷の上を走るトロッコ列車の亀岡だといえば、ぴんとくる方も多いでしょう。豊かな自然が残る風光明媚な亀岡は、先日投稿した丹波篠山市とかつて同じ丹波国に属しており、歴史の宝庫でもあります。亀岡も丹波篠山市同様に周りを山に囲まれた盆地で、穴太寺が建てられたのは亀岡盆地の西の端、曽我部町穴太です。
穴太寺は「あなおじ」とか「あなおうじ」と読み、かつて穴穂寺、穴生寺だったこともありました。穴太というと石積み集団の穴太衆の拠点、近江国坂本に穴太という所がありますし、大阪の八尾に穴太神社というのがあり、周辺の地名に穴太が残っています。ここはかつての河内国穴太邑で、穴穂皇子(安康天皇)のための穴穂部があり、後には聖徳太子の生母である穴穂部間人皇后が成人した場所とも伝わります。同様の伝承は奈良の天理にある穴穂神社にも伝わっていて、いまそれについて深入りすることはできませんが、穴太(穴穂)の名を残すところは、古代交通の要衝だったということは言えそうです。
丹波国の穴太寺について言えば、すぐ近くを古代の山陰道(現国道九号線)が東西に通っていました。
「穴太寺観音縁起」によると穴太寺は飛鳥時代の慶雲二年(七〇五)、文武天皇の勅願で大伴古麿によって開かれたと伝わります。
さらに縁起には観音さまの大慈大悲を説いた次のような話も書かれています。
平安時代に曽我部郷の郡司・宇治宮成が京の仏師に観世音菩薩像の制作を依頼し、そのお礼に愛馬を差し出しましたが、急に惜しくなってしまい、仏師を待ち伏せして弓矢で射って馬を奪い返しました。家に戻ると、自分の放った矢が観世音菩薩の胸に刺さり、血を流しているではありませんか。観世音菩薩は自身が身代わりになることで宮成が罪人になることをも防いでくださったのです。心を入れ替えた宮成は、観音さまの傷を穴太寺の薬師如来に癒やしてもらうため、当地にお堂を建てて穴太観音としてお祀りしたということです。
『今昔物語』や『扶桑略記』にこの話が書かれたことから、穴太寺は早くから知られることとなりました。
比叡山西塔の末院として庇護されていましたが、戦国時代に明智光秀が亀山に城を築く際、穴太寺の堂宇が城の用材に使われ、寺が荒廃したと言われています。
現存する穴太寺の伽藍はすべて江戸時代に再建されたものです。こちらの本堂に御本尊の薬師如来像と観世音菩薩像がお祀りされていますが、秘仏のため拝観はできません。ちなみに観世音菩薩像は平安時代のものではないそうですが、縁起にあるように胸の刺し傷が再現されているとのこと。
本堂の天井にはお詣りに訪れた人たちが参拝の記念にと貼り付けていったお札がたくさんあります。西国三十三所の札所として、多くの人がお詣りに訪れた足跡がこんなところにも残されています。
御本尊は秘仏ですが、本堂には布団をかけて横になっている釈迦涅槃像がお祀りされていて、これがなんともいえず温かみを感じさせる良い仏様です。自分の病の場所と同じところを撫で、その手で自分の体をさすると病が癒えると評判らしく、多くの方の祈りの手で黒光りしていました。私もここやそこをさすってきましたが、果たして御利益がありますかどうか。
本堂西に円応院という方丈と庫裏があります。方丈からは多宝塔を借景に、皐月と石がリズミカルに配された庭を見ることができます。
庭を眺めながら、しばし静かな時を過ごしました。
余談ですが、穴太寺の北西二百メートルほどのところにある金剛寺は円山応挙が八歳から十五歳まで小僧生活を送った場所でした。そのすぐ南にある小幡神社は、社伝によると崇神天皇によって派遣された四道将軍・丹波道主命が崇神天皇の父・開化天皇を祀ったのが起源という大変古い神社ですが、ここは古代史学者の故上田正昭先生が中学生のときに養子に入り、七十年近く宮司をされていた神社でした。上田先生の著作を読みながら、いつも先生の歴史に寄せる思いの深さ、あたたかさに感銘を受けてきた一人として、寄り道のつもりで訪ねた穴太寺の、さらに枝分かれした小さな寄り道で、上田先生とこの土地との繋がりを知り得たのは僥倖でした。こういうことがあるから寄り道はやめられないのです。