洛西、小塩山の麓の大原野は、長岡京遷都を機に狩猟地として開かれた土地で、桓武天皇から陽成天皇まで多くの天皇や朝廷貴族が遊猟に訪れました。
今日取り上げる大原野神社は、桓武天皇が長岡京に遷都するにあたり、皇后の藤原乙牟漏が奈良の春日大社から分霊しお祀りしたことに始まると伝わります。京春日とも言われるのはそのためで、御祭神はしたがって春日大社と同じ四柱。鳥居をくぐり新緑の美しい参道をまっすぐ北に進むと、朱色の鳥居と社殿が現れます。緑と朱が鮮やかな境内です。
奈良の猿沢の池を模して造られたという鯉沢池や、一枝に千もの花をつけることから千眼桜と呼ばれる見事な枝垂れ桜が、大原野の自然に抱かれた境内に一層の彩りを添え散策の足が止まります。そうして立ち止まり、周囲の木々に眼をやったり、鳥のさえずりに耳を傾けていると、色鮮やかな衣をまとった平安時代の王朝貴族たちが、列をなしてお詣りに訪れる様子が脳裏に浮かんできます。
平安貴族たちの関わりから、大原野神社とその周辺を舞台とする文学作品がいくつも生まれました。
この十二月に洛西の大原野の行幸があって、だれも皆お行列の見物に出た。六条院からも夫人がたが車で拝見に行った。帝は午前六時に御出門になって、朱雀大路から五条通りを西へ折れてお進みになった。道路は見物車でうずまるほどである。行幸と申しても必ずしもこうではないのであるが、今日は親王がた、高官たちも皆特別に馬鞍を整えて、随身、馬副男の背丈までもよりそろえ、装束に風流を尽くさせてあった。…(中略)…大原野で鳳輦が停められ、高官たちは天幕の中で食事をしたり、正装を直衣や狩衣に改めたりしているころに、六条院の大臣から酒や菓子の献上品が届いた。
上は与謝野晶子訳『源氏物語』行幸巻の一節ですが、ここに描かれている冷泉帝の大原野行幸は、延長六年(九二八)十二月五日の醍醐天皇による大原野行幸が元になっていると言われています。
紫式部は越後守・藤原為時の娘です。大原野神社は氏神として幼少より頻繁にお詣りに足を運んだ場所ではなかったかと思いますので、史実と自身の体験によってこの話の舞台大原野に命が吹き込まれた感じがします。
長徳二年(九九六)父が越後国の国司に任ぜられたため、父に伴い越後にやってきた紫式部が、越前の日野岳を見て詠んだ次の歌からも、小塩山と大原野への愛着がくみ取れます。
暦に初雪降ると書きたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深う見やらるれば
ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の松に今日やまがへる
また『古今和歌集』巻十七には、在原業平が二条后に贈ったとされる次の歌が収められています。
二条の后の、まだ東宮の御息所と申しける時に、大原野に詣で給ひける日、よめる
大原や小塩の山も今日こそは 神代のこともおもひ出づらめ
二条の后とは後に清和天皇の后となる藤原高子のこと。同様の歌が『伊勢物語』七十六段にも取り上げられていて、そこではかつて高子と恋仲だった在原業平が、お付きの立場で高子の大原野神社詣に従い再会、かつての恋の思いを秘めたのがこの歌だというのが『伊勢物語』的な解釈で、そういう悲恋は人気ですから、結果長く語り継がれることになります。
大原野は、昔から変わらない風景のおかげで、現在と過去の間を自由に行き来することができますし、こうした文学作品があることで、古の心の襞にまで入り込むことができます。大原野の色あせない歴史は、言葉によって支えられているところが大きいような気がします。