いま世間では桜の開花が話題になっていますが、今日は数歩時間を巻き戻し、梅にまつわる話です。
初めて梅の便りを聞いたのは二月の初め頃だったでしょうか。一息に咲き、一息に散ってしまうことの多い桜に比べ、梅は実に息の長い花で、一輪また一輪と花を開いてゆく姿は、丁寧に春の到来を告げてまわっている春の使者に思えます。
冬から春へ。それは季節の移ろいの中で、もっとも待ち望む希望に満ちた時で、梅は自らその季節の移ろいを楽しんでいるかのようです。
満開になった梅の下を歩いていると、なんとも言えない甘酸っぱい香りが漂ってきます。匂いの記憶というのは何十年経っても色あせることはありません。その匂いによって消えかかっていた記憶が呼び戻されることもあります。
二月から三月にかけ、白梅から漂ってくる香りは、かつて実家にあった梅の記憶を掘り起こしてくれます。そしてさらにその記憶は、今は亡き父と幾度となく訪ねた早春の京都に咲く白梅の記憶へと繋がっていきます。
梅が一輪ずつ花開いていくように、記憶もまた一つずつ蘇ってきます。
一輪の梅から紡がれた記憶を辿り、京都の梅宮大社を訪ねました。
梅宮大社は嵐山の南東、桂川を挟んだ松尾大社の対岸の、右京区梅津フケノ川町にある式内社で、橘氏の氏神として知られています。現在は京都の梅の名所として知られ、境内や神苑のあちらこちらでさまざまな梅が咲き競っています。
梅宮大社と呼ばれるようになったのは戦後ですので、ここからは梅宮社として話を進めます。
本殿にお祀りされている神は酒解神、大若子神、小若子神、少し遅れてお祀りされた酒解子神の四柱。相殿には嵯峨天皇、橘嘉智子、仁明天皇(嵯峨天皇の皇子)、橘清友(橘嘉智子の父)が、摂社には橘諸兄がそれぞれお祀りされています。
本殿にお祀りされている神々は他ではあまり聞いたことがありませんが、現在神社では酒解神は大山祇神に、酒解子神は木花開耶姫に、大若子神は瓊瓊杵尊に、小若子神は彦火火出見尊にそれぞれ当てられています。境内に入るとたくさんの酒樽が目に付きます。桂川対岸に鎮座する松尾大社同様、梅宮社も酒の神様をお祀りしていると言われているからですが、これは御祭神とされている大山祇神が娘の木花開耶姫が出産した際、喜んで酒を造って神々に捧げたという伝説によります。
時代を経るにつれ、神々に本来なかった性格が付加されたり、御祭神の性質が変化し別の神になるということがよくあります。梅宮社ではどうなのかと思うのですが、難しい問題ですので今回はとりあえず脇に置いて梅宮社の歴史を振り返ってみますと、そもそも橘氏の氏神を最初にお祀りしたのは、橘諸兄の母、県犬養三千代(六六五?~七三三)でした。
県犬養三千代は河内の豪族犬養氏の出身で、まだ少女だった頃に天武朝に出仕し、その後持統、文武、元明、元正、聖武の各天皇に仕え皇統を支えてきました。三千代の篤い忠誠心はとりわけ元明天皇から高い評価を賜り、橘が常に緑を保っているように変わらぬ忠誠心を持ってほしいという期待をこめ、元明天皇は和銅元年(七〇八)三千代に橘宿禰姓をお授けになりました。(これ以後の三千代の正式な名前は県犬養橘宿禰三千代です)三千代個人に名誉ある姓が与えられたというところに、三千代の卓越した能力がうかがえます。
三千代は天武天皇に仕えて数年後、敏達天皇の子孫・美努王に嫁ぎ、天武十三年(六八四)葛城王を出産します。後の橘諸兄です。その後三千代は美努王との間に、佐為王と牟漏女王を設けますが、間もなくして藤原不比等と婚姻し大宝元年(七〇一)安宿媛が誕生しました。安宿媛は後に聖武天皇の后・光明皇后となった人物です。
三千代の死後、諸兄は母の政治的な力を受け継ごうと橘姓の継承を求め、天平八年(七三六)」それが認められて橘氏の創設となったことから、橘氏の始祖は橘諸兄と言われていますし、実際そうなのですが、こうした経緯を見ると、橘の名は実質的には県犬養三千代から始まっていることがわかります。
三千代と美努王との間に生まれた諸兄と佐為は橘氏となり、とくに諸兄は聖武天皇の時代およそ二十年にわたり天皇を補佐し朝廷の中心的存在として活躍しましたし、娘の牟漏は母同様宮廷で高位にのぼりつめ、藤原房前と結婚します。息子の一人真楯の孫が藤原冬嗣で、平安時代藤原氏の繁栄を支えました。また佐為の娘も聖武天皇に嫁ぎ、橘夫人と呼ばれました。
他方三千代と不比等との間に生まれた安宿媛は、先ほど触れたように、聖武天皇の后・光明皇后となり、後の孝謙天皇を産み、多比能も宮廷で高位にあり、異父兄の諸兄に嫁ぎ橘氏の繁栄を助けました。多比能と諸兄の間に生まれた奈良麻呂の孫が、後に嵯峨天皇の皇后となり仁明天皇を産んだ橘嘉智子(檀林皇后)です。橘嘉智子は橘氏出身者として唯一皇后になった人物。類い希な美貌を持ちながら、仏教に深く帰依し、日本で最初の禅寺・檀林寺を創建しています。
橘氏と藤原氏が縦横無尽に交差する人間関係に目眩を覚えますが、その根幹、起点になったのが他でもない三千代でした。
不比等の妻となった三千代は、平城京の東にあった広大な不比等邸で暮らしていました。現在その一部が法華寺になっています。法華寺は光明皇后が不比等亡き後相続した土地に創建されたお寺で、光明皇后の篤い信仰心は聖武天皇との関わりからも存分にうかがえますが、光明皇后の信仰心は三千代譲りのもので、広大な不比等邸に暮らす三千代は邸内に仏堂を持ち、自念仏をお祀りしていたと考えられています。
三千代は同時に橘氏の氏神もお祀りしていました。ある意味これが梅宮社の始まりといえますが、奉祀場所が自邸内であったかどうかはわかりません。
平安時代末の『伊呂波字類抄』によると、「梅宮社の神は犬養大夫人の祭神で、それを藤原大后と牟漏女王が洛隅内頭にお祀りし、その後相楽郡提山に遷したところ、仁明天皇の時に祟りをなしたので、大后が葛野川頭に遷した」とあります。つまり、三千代が奉祀していた神を、光明皇后とその異父姉の牟漏女王が受け継ぎ、都の内のほとりにお祀りされ、その後橘諸兄の本拠地だった山城国の井出に遷し祀られたが、祟りをなしたので、橘嘉智子によって桂川のほとりの現在地に遷された、ということで、これをそのまま信じれば、三千代の女系子孫たち、それも橘氏の枠を超えた女系子孫たちの思いが三千代の信仰を受け継ぎ、現在の梅宮大社へと繋がっているということになります。
現在の梅宮大社に県犬養橘宿禰三千代の面影はありませんが、橘氏にとって三千代は欠かせない存在でしたし、三千代がいなかったら藤原氏や聖武朝があのように繁栄したかどうか…ということを思い、今回はあえて三千代のことに紙面を割きました。大変魅力的な女性ですので、折を見てまたじっくりと向き合ってみたいと思っています。
ちなみに梅宮大社の「うめ」は御祭神の一柱・木花開耶姫が炎の燃えさかる中彦火火出見尊を無事産んだことに由来すると言われていますし、地名の梅津も「埋め津」から来ているようで、どちらも梅とは関係がないのですが、いつの頃からか当地に梅が植えられ、現在神苑には六百本近い梅があるそうです。
神苑は池を中心にした回遊式庭園。江戸時代から昭和四十年代後半にかけ、幾度にもわたって改修整備が行われ、現在の姿になりました。
ゆっくりと散策していたら、趣きあるこちらの茶室に目が留まりました。昭和九年(一九三四)昭和天皇即位式の茶室を下賜されたもので参集殿といいます。
夕されば門田の稲葉おとづれて 芦のまろやに秋風ぞ吹く 大納言経信
平安時代中頃、自然豊かな梅津は貴族たちに人気の別荘地でした。源経信は源師賢の所有する梅津の別荘に招かれた際、歌会で上の歌を披露したといいます。百人一首にもおさめられている有名な歌ですが、この茶室の屋根が、歌に謡われている当時の芦のまろや(円屋)を伝えているそうです。まろやを眺めながら、経信の歌の情景を思い描いていると、実にゆったりと伸びやかな光景が脳裏に現れるではありませんか。
橘嘉智子が祖神の鎮座地として当地を選んだのは、そうした梅津の風景に心惹かれたからかもしれません。