早いもので三月も半ばになりました。
この時季いつも自宅の裏山から独特の香りが漂ってきます。土が蒸れたようなその匂いは、十数年前ここに移り住んで間もなかった頃の私の鼻に悪臭として記憶されましたが、一年また一年と月日を重ねるにつれ、いつしかその匂いは春の到来を告げる香りとして書き換えられました。
土の中から這い出そうとする虫たち。芽吹こうと地中でうごめく植物たち。みなそれぞれに力をこめて春の外気に飛びだそうとしてかいた汗の匂いが山の土と混ざり合って発散された、だからつんと鼻をつくような、あの匂いなんだろう。子供のような空想ですが、そう思っています。
春の訪れは、裏山でさえずる鶯の声からも感じとれます。数日前の朝、鶯の声で目が覚めました。微睡みの彼方から聞こえてくる美声。最初夢かと思いましたが、現実のものでした。いまはもうすっかり春なんだ。そう気づいた瞬間、自然界から数歩遅れて私はようやく冬眠から目覚めました。
時は止まることなく永遠に流れ続けます。ほんの少し立ち止まっている間に、一足先に進んでしまった春の後を追って、現実の今と自分の中の現在が重なるように、速度を上げて歩き出したところです。
さて久しぶりの投稿の舞台は、敬愛する日本画家の一人、橋本関雪(一八八三~一九四五)が、京都東山の麓に手がけた白沙村荘です。
大正三年(一九一四)、慈照寺(銀閣寺)に近い琵琶湖疎水のほとりに土地を手に入れた関雪は、そこに本邸を構え、自ら指揮して理想とする庭園を三十年余りかけて造り上げていきました。敷地面積はおよそ一万平方メートルに及びます。最初は北半分だけだった敷地を昭和になってから南側にも広げ、三つの池を庭の中心に据え、その周りに各地から集めた石塔や石仏を配していきました。建物は主屋や画室のほか、茶室や四阿、堂宇など。主屋から茶室へ。茶室から対岸にあるもう一つの茶室へ。庭を散策する目には、常に異なる風景が映ります。
この庭の最大の特徴は、全国各地から選りすぐって集められ、関雪の感性で庭の各所に配された石造物です。
これらは平安から鎌倉時代にかけて寺院などに置かれていたもので、中には国分寺の礎石として用いられていた石や、舞台として使われていた巨大な石、多くの石仏が刻まれた巨大な石もあります。見ていると、石の存在感の大きさに圧倒されるのと同時に、それぞれに歴史を秘めたこれらの石造物をどこにどう配するか、真剣に庭の風景と向き合い思案した関雪の精神的な力にも圧倒される思いがします。
関雪は十二歳から本格的に日本画を学び始め、二十一歳のとき竹内栖鳳の画塾に入門、次々に文展に入選し頭角を現しました。父の影響で幼いころから漢学に親しんできたことが画風にも大きく影響し、南画風の作品や中国古典に着想を得た作品を多く描いています。
白沙村荘の中心にある画室「存古楼」で大作が描かれました。存古楼は庭の東西に向かって開かれ、東を見れば芙蓉池の風景(写真下)が、西を見れば持仏堂のある風景が望めます。広い画室は室内ではありますが、庭と一体化し、自然の中で描いているような感じがしたのではないでしょうか。
「私にとっては、庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった」
晩年関雪はこう書き残しました。
人の手が入り人の手によって造られた自然に人が感銘を受けるのは、そこに作り手の精神が宿っているからです。絵の世界に生きた関雪が発した先の言葉は、決して表面的なことではなく、重く胸に響きます。
敷地内には二〇一四年に新しい美術館が完成し、その二階テラスからは大文字山を借景にした庭園を一望できます。
あいにくの曇り空、しかも一眼レフを持っていなかったので、せっかくの眺望をうまくお伝えできませんが、この風景は実にのびやか。春には桜、秋には紅葉が庭園に色を添えるそうです。
ちなみに関雪といえば「玄猿」に代表される動物画を思い浮かべる方も多いでしょう。関雪の描く動物たちは実に自然でのびのびとしていて、鑑賞者との距離を感じさせません。それは関雪自身が大の動物好きで、動物たちと心を通わせることができたからこそではないでしょうか。関雪の描く動物たちは、同じく動物好きの私の心を大いにくすぐり、その技術に感嘆しつつ、愛らしい姿に身も心もとろけそうになります。
そんなことを思っていたら、白沙村荘の庭を、一匹の猫が悠然と横切っていきました。低木の間で背中を丸めているその猫に、「ご飯食べた?」と聞いたら、「ニャー」と力強い返事が返ってきました。続けて「寒くない?」と聞くと、また「寒くニャー」と答えてくれたので、「ここで飼われてるの?」と聞いたところ、今度は声を殺してうつむいてしまいました。「ご飯もらえてるなら自由に生きられるほうがいいね」そう言って立ち去ろうとすると、その猫も立ち上がって、「こっちにもおもしろいところがあるよ」と教えてくれました。