大阪府の北部、豊中市、吹田市、茨木市、箕面市にかけて千里丘陵が拡がっています。下の五世紀頃の大阪の様子(以前投稿した「難波宮跡」でも取り上げていますので、興味のある方はそちらもご覧ください)からわかるように、現在の大阪平野の多くは海または湖で、千里丘陵(下図でいうと上の白い部分)の南端は河内湖や大阪湾に面した岸辺でした。吹田市に豊津とか高浜といった地名があります。現在の街並みからは想像もつきませんが、こうした地名から吹田が古代水運における要衝にあったことがわかります。
そんな吹田市の岸辺に吉志部神社という古社があります。神社が鎮座するのは紫金山の中腹。こちらの地図でおわかりのように現在公園として整備されている紫金山北の池を、無残にも名神高速が貫いていますが、古代このあたりは渡来系の難波吉志一族が居住する一帯で、吉志部の里と呼ばれていました。
吉志とは貴志、岐志、吉師とも書かれます。もとは新羅で使われていた役人の称号で、新羅系の渡来人と考えられるという説や、高句麗系だとする説があり、そのあたりの出自について確かなことはわかりませんが、難波周辺を本拠とする渡来系ということのようです。海外からの船を案内する水先案内人となるなど外交面で活躍したほか、須恵器の技術をもたらしたとも言われています。
そんな吉志氏が大和の瑞籬から守り神を奉遷したのが、吉志神社の始まりと伝わります。社伝によれば崇神天皇の時代で当時は大神宮といったようです。現在は中央に天照皇大神、豊受大神、右に八幡大神、素戔嗚大神、稲荷大神、左に春日大神、住吉大神、蛭子大神の八柱をお祀りしています。社伝では創建当初から豊受大神をのぞく七柱を御祭神としていたとありますが、それは八世紀以降ではないでしょうか。
いずれにしても古くから立派な社殿を持つ神社でしたが、応仁の乱で焼失、奇跡的に焼失を免れた神鏡を奉祀し文明元年(一四六九)に再建されます。さらに江戸時代には三好長慶の孫にあたる吉志部弥一衛門尉家次とその弟、吉志部次郎右衛門尉一和の兄弟によって現在地に本殿が勧進されました。それは全国でも珍しい七間社流造で、非常に手の込んだ華やかな装飾が施された貴重な社殿だったことから、平成五年(一九九三)に国の重要文化財にも指定されていましたが、平成二十年(二〇〇八)に不審火により焼失。現在の社殿は宮司、氏子たちの尽力で平成二十三年(二〇一一)に再建されたものです。(ちなみに施工は金剛組です)
幾たびもの試練を乗り越えてきた吉志部神社は、それを感じさせないほど明るく清々しい雰囲気で、新しい年への希望を託すにふさわしい感じがしました。
ちなみに、神社の背後に紫金山という小山がありますが、そのあちらこちらに古代の須恵器の窯跡が残っています。
こちらは七世紀に須恵器が焼かれていた登り窯です。実際はここから西に一キロほどのところにあったものを現在地に移したもので、このあたりの窯跡として比較的新しいですが、一帯で須恵器が焼かれていた歴史が蘇ります。
こちらも登り窯跡。丘陵斜面を利用して作られたもので、四基が確認されているそうです。
現在紫金山一帯に残る窯跡では、主に平安京造営に際して使用する瓦を生産していたようで、調査により平窯九基、登窯四基の窯跡の存在が明らかにされ、国の史跡に指定されています。
千里丘陵は傾斜が緩やかなうえ谷が入り組んでおり、登り窯を作るのに適した地形をしていました。加えて土も良質な粘土状の土。薪にする木々も豊富にありました。そうしたことから、古墳時代には須恵器の生産がすでに行われていました。それを主導していたのはおそらく吉志氏で、紫金山に残る古墳の被葬者ももしかすると吉志氏かもしれません。神社の背後に残る窯跡は、古墳時代以来の須恵器生産の歴史を受け継ぐものです。
最近日本の古代を知るには、大阪という土地がとても重要ではないかと思い始めています。瀬戸内海を東進した海外からの船は大阪湾に入って難波で上陸、そこから街道、あるいは河川をつたって大和国を目指しました。大阪は古代の日本における外交や文化受容の窓口でした。以前こちらのブログでも投稿した四天王寺や住吉大社、またいずれ投稿しようと思っている竹内街道をはじめとする大阪と奈良を結ぶ諸街道、大阪と奈良の間に聳える生駒山、二上山、葛城山、金剛山といった山々と峠道は、古代の大阪の重要性を語り伝える存在ですが、奈良に比して顧みられる機会が少ないように思います。京の都の発展のために近江国の存在が欠かせなかったように、大阪という土地(古代においては河内、和泉、摂津ですが、中でも河内)が大和の発展に果たした役割は計り知れません。これから数年をかけて、その辺りを探っていけたらと思っています。
二〇一八年も残すところわずかとなりました。皆様にとりまして新しい年が健康で良い年になりますように。