東海道に心血を注いできたここ数年間は、他の場所を訪れても気持ちが入っていきにくいもどかしさがありました。一度に一つのことしかできない不器用な性格のためで、心の動きというのはなかなか自由自在に操れるものではないのだなと改めて自覚したものです。
この場で東海道の紀行を発表し終えたいま、結果は不本意で晴れやかな気分とはいかないものの、とりあえず心は自由になりました。ならば自由になった心はどこにでも吸い寄せられ飛んでいくかと思いきや、案外そうでもないようです。やはり心は安住できる土地に降り立っていく。それがどこかといえば、私に関していえば何よりまず近江国なのです。
晩秋のある日、湖東三山の一つ、百済寺を訪ねました。
百済寺は琵琶湖の東に点在する天台宗の三名刹、いわゆる湖東三山の一つです。
寺伝によると、創建は飛鳥時代の推古十四年(六〇六)。高句麗の僧恵慈と共に当地に至った聖徳太子が山中で霊木を見つけてそこに十一面漢音像を刻み、周りにお堂を建てたことに始まると伝わります。そのお堂が百済の龍雲寺を模して造られたことから、百済寺と呼ばれるようになったということのようですが、聖徳太子に創建由来を求めるのはよくあることで、百済寺という名前はむしろ当地に根を張っていた渡来人たちの氏寺に発するのではないでしょうか。百済寺の南西およそ八キロほどのところにある石塔寺は、夥しい数の石塔や石仏に囲まれた三重石塔が有名ですが、この石塔は百済式で日本には見られないものです。石塔寺のことはまた別の機会に取り上げたいと思いますが、石塔寺のある蒲生野を中心とした湖東には多くの渡来人たちが居住していました。
それはさておき、時代下った平安時代、琵琶湖周辺の多くの寺同様百済寺も延暦寺の勢力に取り込まれて天台宗となり、その後戦国時代にかけて中枢部だけでも三百坊、総計千坊に及ぶ壮大な寺院になりましたが、明応七年(一四九八)と文亀三年(一五〇三)の戦火で本堂や寺宝などを焼失。追い打ちをかけるように天正元年(一五七三)信長による焼き討ちで灰燼に帰しました。幸い御本尊と重要な経巻だけは奥の院に遷座させていたので無事だったそうですが、とにかくこの信長による焼き討ちは凄惨を極めました。
三度も戦禍に遭ったのは、皮肉にもここが交通の要衝、要害の地だったからで、戦国時代中頃近江で力をつけていた六角氏は百済寺と近くの観音寺を石垣で城塞化し守りを固めましたが、結局信長に攻め入られ、永禄十一年(一五六八)には観音寺城が、続いて天正元年に百済寺城が落城しました。そのとき百済寺は信長につくか、六角氏につくか苦渋の選択を迫られましたが、長年の恩義にこたえて六角氏についたそうで、寺域が焼き討ちに遭ったのはそのためと言われています。
本格的に再興されたのは江戸時代になってからで、井伊家、春日局、甲良豊後守などの寄進により、現在の本堂、仁王門、山門などが再建されました。
境内を歩いているとよく見かけるこうした石垣は、城塞化された山城の名残です。いまは静かな境内ですが、百済寺にはそうした歴史があったのです。戦火を浴びたであろう石垣を、いま私が見ているという不思議。歴史的遺構は長大な時間を瞬時に縮めてくれるような気がします。
ところで百済寺は三山のうちでは最も南の、現在東近江市になっている百済寺町にあります。東近江市ができたのは二〇〇五年ですから、私の感覚からするとつい最近のことです。百済寺町は二〇〇五年以前は愛東町に属していました。愛東町の大字百済寺町がそれで、その後に甲乙丙丁戌が付いて細かい地域を表していましたが、その地域は現在の百済寺町(以前百済寺町丁だった地域が現在の百済寺町です)よりはるかに広い範囲にわたっており、かつての百済寺の繁栄が偲ばれます。
市町村合併で地名が消えてしまうことが多いなか、範囲は狭まったにせよ百済寺町という名が残っただけでも良しとしなければならないのかもしれません。
百済寺は湖東に拡がる広大な平野が南北に連なる鈴鹿山脈に突き当たったところに位置しています。突き当たりといっても、実際寺域はすでに山に食い込んでいて、本堂までは長い石段を上っていくことになります。周囲は鬱蒼とした木々、紅葉の時期は深紅のアーチとなります。この百済寺の石段の参道はいつ訪れても印象深く、私の大好きな道の一つです。
巨大な草鞋が目を惹く仁王門をくぐり、さらに石段を上がっていくと、やがて本堂が見えてきます。
聖徳太子の手によると伝わる御本尊は秘仏のため拝観できず残念ではありますが、本堂にお祀りされている二体の観音像に接したとたん、その気持ちはどこかに吹き飛んでしまいました。
それは、御本尊と共に信長による焼き討ちから難を逃れた聖観音像と如意輪観音像で、やや小ぶりではありますが実に優美なのです。如意輪観音といえば、以前こちらのブログで観心寺の如意輪観音のことを書いたことがあります。観心寺の像は妖艶という言葉がふさわしいお姿でしたが、百済寺の像は清楚で可憐な感じがします。
この二体の観音像を拝観し、御本尊の十一面観音像もさぞや美しいお姿なのだろうと思いました。ご開帳は半世紀に一度だそうです。次がいつなのか、果たして生きている間に拝観がかなうのかわかりませんが、それがかなわなくとも、また百済寺を訪れることになるでしょう。
ルイス・フロイスは百済寺を「地上の楽園」と賞しました。千もの坊を構えていた当時は、まさに目を瞠る風景だったでしょう。いまその偉容は想像するしかありませんが、長い石段の先に本堂を捉えたときの、また本坊裏から屋根越しに拡がる湖東平野の風景を見たときの、また千枚田のような平地に立ち石垣に手を触れたときの高揚感は格別なものがありますから。