隠国の初瀬の山は色づきぬ 時雨の雨は降りにけらしも 大伴阪上郎女 「万葉集巻八 一五九三」
大阪から伊勢方面に向かう近鉄大阪線の電車が、なだらかで柔和な三輪山の麓をかすめながら、次の大和朝倉駅に近づくにつれ、周りの景色は山国らしい懐深く寡黙なそれに移り変わっていきます。
進行方向に向かって左の山の麓には初瀬川が流れ、それに沿った狭隘な平地に集落や農地が点在しているのが車窓からも確認できます。
初瀬と書いていまは「はせ」と読みますが、かつては「はつせ」で泊瀬と記されたこともあります。長谷寺の北東にある貝ヶ平を源流に西に向かって流れるのが初瀬川で、初瀬川はやがて三輪山の麓を経て大和川となって奈良盆地を横切り最後は大阪湾に注ぎますが、古代は大和川の水運が頼りでした。泊瀬はまさにそうした水運の歴史を伝える地名のようです。
隠国
これは初瀬の枕詞として数々の歌に詠まれてきましたが、見事にこの土地の特徴を言い当てていて、その言葉の効力はいまなお健在という感じがします。とりわけそれを強く感じるのは長谷寺に詣でたときで、総門をくぐりいつまでたっても終わりの見えない長い登廊を歩いていると、次第に体はお寺にというより山に潜り込んでいくような感覚に包まれていきます。
そしていつの間にか、無意識に、心は鎮まり、集中力が高まっている、そうしたところで、驚くほど大きな十一面観音像に出会うのです。そして本堂を出れば、大きく前にせり出した舞台が拡がり、眼下には初瀬の風景、そして西の山には深紅の五重塔。自然の地形を生かしたといえばそれまでですが、本堂にたどり着くまでの道のりは実によく出来ていると思います。
季節ごとに境内を彩る色彩は変わります。長谷寺は古来花の寺としても知られ、桜に牡丹、紫陽花、山茶花…と目を楽しませてくれますが、私が好きなのは、山それ自体に色彩が加わる桜と紅葉の季節です。「紅葉はこれから冬に向かっていくので寂しい感じがするから桜のほうがいい」初瀬山の上のほうから、そんな風に話しながら下りてくる人とすれ違ったとき、感じ方はそれぞれだなと思いました。
私は赤や黄色に姿を変える木々に強い生命力を感じます。冬に向け体に栄養を蓄えるための準備としての色付きがこれほどにも鮮やかで、見る人の心を動かすのですから、その力たるや大変なものです。この鮮やかな色彩は葉を落とす前に見せる命の発露で、その後に葉を落としても命は面々と繋がっています。また春になれば芽吹き、緑の葉を生い茂らせる。命は循環している。力強く。たくましく。その流れのいったんに接しているということが強く実感できるのが紅葉だと私は思っています。
最近、それを人の命に置き換えたような経験をしました。落葉前に見せてくれた色彩は力と希望に満ち溢れ、黄金に輝きを放っては周りの人の胸を打ちました。
思えば、紅葉の時期初瀬を訪れるのは今回が初めてです。
山の色付きは少し盛りを過ぎていましたが、自身の体験という名のフィルターを通して目にした初瀬の風景は、実際以上に輝かしいものでした。
長谷寺は飛鳥時代の朱鳥元年(六八六)道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」を初瀬山の西の岡に安置したことに始まり、奈良時代の神亀四年(七二七)徳道上人が聖武天皇の勅願で十一面観音像を東の岡にお祀りしたと伝わります。言ってみれば創建伝承が二つあることになりますが、これは平安時代の末から鎌倉時代ごろに書かれたとされる「長谷寺縁起文」以降に現れた伝承で、改変されている可能性が高く、現在の研究では養老・神亀年間だろうと考えられているそうです。創建伝承はしばしばこのように古く見せるために改変されることがありますので、それについていま取り立てて何かを言うつもりはありませんが、長谷寺としての歴史は養老・神亀年間ごろであっても、初瀬の地に根付いた信仰はそれをはるかに遡るだろうという気がしています。
地図を見るとおわかりのように、長谷寺のある初瀬山は三輪山の東に位置し、初瀬は長い谷になっています。三輪山は古代ヤマトの信仰の中心にありましたが、初瀬はその三輪山に隠れています。隠れて見えない初瀬から流れてくる初瀬川(大和川)の水運によって力を強めていったヤマトの人びとにとって、初瀬の地は恵みの水をもたらす神の住まう土地として映じたのではないでしょうか。
長谷寺の北およそ二キロの山中に瀧蔵神社があります。今回は残念ながらそこまで行くことができませんでしたが、瀧蔵神社は初瀬の地主神、長谷寺信仰の源がここにあると言ってもよいでしょう。
三輪山を回り込むように初瀬の北、瀧蔵神社へというコースもいいかもしれません。