「寄り道東海道」の園城寺で琵琶湖疎水について触れたように、明治二十三年に大津から山科を経て蹴上に引いてこられた琵琶湖の水は、京都人たちの生活用水としてだけでなく、水運や水力発電などに用いられ、京都の近代化に多大な貢献をしましたが、同時にこの水は京都の庭園文化にも変化をもたらしました。
京都の庭というと枯山水を思い浮かべる方も多いと思います。これは水に苦労してきた京都人が考えだした抽象的な庭園様式で、頭の中で自然風景に置き換えてみたり、あるいはそのまま抽象芸術として鑑賞したりと、さまざまな楽しみ方、対峙の仕方がありますが、自然の水への憧れはずっと京都人の心の奥にあったのではないでしょうか。
琵琶湖疎水が完成して間もない明治二十七年(一八九四)、七代目小川治兵衛が山県有朋と出会ったことで、京都の岡崎にこれまでにはなかった新しい庭が誕生しました。つまり琵琶湖の水をそのまま庭園に引き込んだことで、常に水の流れ、せせらぎを感じることのできる空間ができたのです。
その最初の記念すべき新しい庭園が無鄰菴です。
無鄰菴は、かつて南禅寺境内だった京都岡崎に山県有朋が造った別荘庭園ですが、無鄰菴といったとき、それ以前に京都木屋町二条にあった角倉了以の別荘跡を自身の別荘とし、そちらも無鄰菴と名付けられていました。ただこちらは町中にあり、有朋の求める環境ではなかったことから、静寂に包まれた理想の土地を探し求め、ようやく現在地に出会いました。
山県有朋の理想の土地への庭造りを任されたのが、江戸時代から造園業を営んできた植治の七代目小川治兵衛でした。七代目治兵衛というと、京都岡崎に点在する財界人たちの別荘庭園で知られますが、無鄰菴その嚆矢となる庭園で、七代目にとってもいわばデビュー作でした。
それまで七代目が手がけてきた庭というと、お寺の庭や茶室の庭、あるいは町屋の坪庭といったものでした。そうした中、有朋が望んだのは、芝を用い明るく開放的な庭にすること、それまで脇役でしかなかった檜や杉などをふんだんに使うこと、そして完成したばかりの琵琶湖疎水の水を庭に取り入れることでした。そのいずれも七代目にとって初めての経験でしたが、自然に対し敬虔な気持ちを抱いていた七代目にとって、無鄰菴の作庭は才能を開花させる格好の場となったようです。
土地が四角形ではなく直角三角形だったので、造園には難しい条件でしたが、七代目は庭の奥に三段の滝を造ることで、滝に幅を持たせることに成功。
また庭の中央の池は水深をわずか二~三センチにすることで、実際以上の拡がりを感じることができるようにしました。
有朋は無鄰菴を愛し、多忙の合間を縫ってはここを訪れ心を休めたといいます。
岡崎に点在する七代目小川治兵衛による庭は、どこも琵琶湖疎水の水を引き入れた水が主役の庭園です。滝から勢いよく落ちる水、転がるように流れる水、静止し鏡のように空を映し出す水…。七代目は疎水の完成によって得た水のありがたさを、水に様々な表情を与えることで表現したのかもしれません。