京の都には都と諸国とを結ぶ街道が集まっていました。その街道の出入り口は京の七口と呼ばれ、関が設けられていました。
時代によって場所も数も変わっていますが、現在京の七口といったときに挙げられるのは、鞍馬街道の出入り口である鞍馬口、若狭街道の出入り口である大原口、山中越えに通じる荒神口、東海道・中山道の出入り口である粟田口、伏見街道の出入り口である伏見口、竹田街道に通じる竹田口、西国街道や鳥羽街道に通じる東寺口(鳥羽口)、丹波へと続く丹波口、京見峠を経て周山・若狭方面に通じる長坂口があります。
このうち、東海道・中山道の出入り口である粟田口に鎮座し、古より旅人の安全を見守ってきたのが粟田神社です。
粟田神社の創建由来については、次の二つの説があります。
一つは、平安時代の貞観十八年(八七六)、清和天皇に仕える神官や陰陽師が天皇に対して、今年は兵災や疫病があると奏上したことから、藤原興世に祈りを捧げさせたところ、大己貴神が夢に現れ、自分を祀る神社を建てれば災いが防げると告げたことから創建されたというもの。
もう一つは孝昭天皇の流れをくむ粟田氏の氏神をお祀りする神社として創建されたというもの。
どちらが正しいのかわかりませんが、いずれにしても平安時代には現在地に鎮座していたようです。
東海道の終着点である三条大橋を目指し、最後の直線となる三条通りを歩いていると、進行方向左手に粟田神社の鳥居が見えてきます。そこから南に折れ、石段を上った高台に神社は鎮座しています。この石段、秋には参道両側の木々が色づき、深紅のアーチとなって参拝者を迎えてくれます。
粟田神社では毎年十月に例大祭が行われるのですが、その際御輿に先行して剣鉾の巡行が行われます。これが祇園祭の山鉾の原型という説もあるそうで、室町時代に祇園祭が行えなくなった際、粟田神社の例大祭がその代わりを務めたこともあったように、八坂神社と繋がりの深い神社です。
三条大橋まで残り一キロほどですが、粟田口を過ぎたことでもう京に入ったと言えます。粟田神社の高台から見下ろす京の町は格別なものに思えました。