大津の本陣跡を過ぎ西近江路(国道一六一号線)を南下、進行方向右手の山裾に長安寺という時宗のお寺があります。
木立に覆われひっそりとしたこの寺はかつて関寺といい、能の世界で最高の秘曲と言われる「関寺小町」の舞台にもなった小野小町ゆかりの場所です。関寺は詳しい創建由来が不明ですが、おそらくすぐ近くにある関蝉丸神社の神宮寺だったのではと思われます。(関蝉丸神社については連載の「京都三条大橋」で触れていますのでよろしければそちらもご覧ください)
「関寺小町」は次のような内容です。
老いた小野小町は関寺の山陰で小さな庵を結んで侘びしく暮らしていたところ、七夕の日に関寺の住僧が稚児たちを連れて小町のもとを訪ね、歌道の話を聞かせてほしいと頼みました。小町はいったんは断りましたが、強いての願いを聞き入れ、懇ろに語って聞かせました。その日は七夕、寺では糸竹管弦や舞が舞われ、それを目にした小町は昔を懐かしんでふらつきながらも舞を舞いましたが、やがて夜明けと共に杖にすがりながら庵に帰っていきました。
これはあくまでも謡曲ですが、晩年の小野小町の姿が山科の小野にある随心院に伝わっているように、実際に逢坂から山科にかけて足跡を残した事実があったのかもしれません。
長安寺の片隅には、写真下のような小町の供養塔があり、ひっそりと小町伝説を伝えています。
ところで関寺は平安時代中頃に地震によって倒壊し、その後復興工事が行われました。その際資材の運搬に一頭の牛が大活躍、その牛は仏の化身とあがめられましたが、工事完了と同時に息絶えてしまったことから、供養塔としてこちらの石塔が建てられました。
鎌倉時代のもので高さはおよそ三、三メートル。八角形の礎石の上に巨大な壺型の塔、さらにその上に笠石が乗せられたこの牛塔は、どっしりとしていながら大らかな優しさが感じられる名塔。国の重要文化財に指定されています。
こういう石造物を見ると、石走るという枕言葉を持つ近江の石の力を見る思いがします。