寄り道東海道

石山寺

草津から大津までの道は、近江八景の道でもあります。

近江八景とは、矢橋帰帆やばせのきはん瀬田夕照せたのせきしょう石山秋月いしやまのしゅうげつ粟津晴嵐あわづのせいらん三井晩鐘みいのばんしょう唐崎夜雨からさきのやう堅田落雁かたたのらくがん比良暮雪ひらのぼせつの八景。中国洞庭湖の瀟湘八景の影響を受け、京都や近江の僧侶によって生み出されたと言われています。最終的な選者が誰なのか、諸説あるものの正確なことはわからりませんが、これら八景が琵琶湖の南半分、しかも大津周辺に集中しているのは、大津の位置が大いに関係しているでしょう。大津は逢坂峠を境に都に隣接、東海道と北国街道が通る陸上交通の要衝であり、大津湊を持つ水運の要衝でもありました。

都人にとって、琵琶湖の風景が拡がる大津周辺は行楽に訪れるのに格好の場所だったでしょうし、長い道のりを歩き続けた人々にも、穏やかで色彩豊かな琵琶湖の風景は大きな慰めになったはずです。大津周辺に近江八景がまとまっていることで、旅が促され、旅が盛んになったから近江八景が広く知られるようになりましたし、広重の描いた近江八景の人気も、旅の促進に一役買ったでしょう。そんな当時の旅と景勝地との相乗効果が見て取れます。

ということで、今日は石山秋月の石山寺のことを。

石山寺があるのは、琵琶湖の南から流れる瀬田川の西側の河岸段丘ですが、門前一帯がアジアでも最大級の淡水産貝塚だったことで知られ、周辺からは弥生式の銅鐸も見つかっているという、縄文時代からの暮らしの営みがあった場所です。しかもここは瀬田の唐橋があるように東西交通の要衝であり、琵琶湖から流れる瀬田川によって近江国は大和と密接に結びついていました。先日投稿した近江国衙跡や近江国一宮の建部大社が琵琶湖南部に集まっているのも、ここがそういう土地だからです。

言い伝えによると、石山寺の創建は天平十九年(七四七)。聖武天皇が東大寺の盧舎那仏を建立するにあたり大量の金が必要だったことから、良弁に吉野の金峰山で祈願するよう命じたところ、蔵王権現の夢告を受けて石山にたどり着き、聖武天皇から預かった如意輪観音像を岩に置いて祈念したところ、陸奥国で金が発見され、無事盧舎那仏を建立することができました。ところがその後良弁が観音像を持ち帰ろうとしても岩から離すことができなかったことから、そこに草庵を建ててお祀りしたのが石山寺の始まりだということですが、これはあくまでも霊験譚。実際には『正倉院文書』から次のようなことだったようです。

平城京建設のにあたり大量の木材が必要となり、その供給地として近江の田上山に白羽の矢が当たりました。切り出された木材はいったん石山に集められ、瀬田川の水運を利用して大和国に運ばれたのですが、それにあたり石山には東大寺別当の出先機関が置かれ、その責任者が良弁でした。石山院と呼ばれた出先機関が石山寺の前身というわけです。

平安時代になると、観音菩薩のご利益にすがる人が増えたことを受け、朝廷、公卿らの石山詣が流行し、その様子が『宇津保物語』『蜻蛉日記』『枕草子』『和泉式部日記』『更級日記』など多くの文学作品にも記されました。

ちなみに紫式部が『源氏物語』を執筆したのも、ここ石山寺でした。

創建由来はそのくらいにして、境内に入ってみましょう。

こちらは瀬田川に東面した正門にあたる東大門。鎌倉時代に建てられたものですが、慶長年間に大規模に手が入っているそうです。国の重要文化財。風格ある構えに圧倒されます。

緑と岩の調和が美しい参道を進み現れるのが、ダイナミックな硅灰岩(国の天然記念物)の奥に多宝塔がのぞく風景です。

 

 

石山寺という名は、まさにこの累積した硅灰岩の上にあることから付けられたもので、石山寺の石山寺たる所以を肌で感じることのできる場所です。それにしても、石山寺に見られる石の迫力には圧倒されます。

また硅灰岩の奥に見える多宝塔(国宝)の美しいこと。建久五年(一一九四)源頼朝による寄進と伝わる石山寺の多宝塔は、日本における最古で最も美しい多宝塔と言われています。

石山寺本堂 P8270378
上の写真は舞台造りが印象的な国宝の本堂。現在の本堂は永長六年(一〇九六)の再建です。

下は鎌倉時代に建てられた袴腰の鐘楼。楼上の鐘は平安時代のもので、鐘楼とともに国の重要文化財に指定されています。

 

 

石山寺といふ名にしおふものさびたる古刹にして、かの俳士芭蕉庵が元禄のむかし幻住の思ひに柴門をとざして、今はその名のみとゞめたる国分山をうしろになし、巖石峨々として石山といへる名も似つかはしきに、ちとせのむかし式部が桐壺の筆のはじめ大雅の心を名目に浮かべたる源氏の間には僅かにそのかみを示して風流の愁ひをのこす。門前ちかく破れた茶丈の風雨のもれたるをつくろひ、ほこりをたゝき塵を落して湖上に面したる一室をしきり、こゝにしばらく藤の花のこぼれたるを愛す。

 

これは石山寺を愛し、明治二十六年の春石山寺の門前に二ヶ月ほど住んだ島崎藤村が残した『茶丈記』の一節。古来石山寺は朝廷や武家ばかりか文学者たちの心をも捉えてきました。岩石好きの私としては、信仰の力に加え、石山寺に漲る岩の力が多くの人を惹きつけてきた一因ではないかと思いたくなります。

 

 

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