瀬田の唐橋の東一キロほどの大江というところに、古代律令制の時代、中央から派遣された国司が政務をとる国衙(国府)が置かれていました。
平安時代中期の『和名抄』などから、栗太郡(瀬田川以東の大津市、草津市、栗東市など琵琶湖の南岸)にあったということはわかっていましたが、場所は特定されていませんでした。それが昭和三十八年(一九六三)建設現場から大量の瓦やレンガなどが出土したことをきっかけに本格的な発掘調査が行われ、南北の両正殿、東西の両脇殿、それらを囲む築地塀や中門、南門などの遺構が確認でき、それが近江国衙跡であることが判明しました。
こうした建物が建てられたのは、八世紀の中頃、藤原仲麻呂が近江守だった時代と推定され、十世紀の終わりごろまでは使われていたようです。
大宝律令の規定によると、国衙には知事のような役目の守が一人、副知事のような役目の介が一人、警察署長のような役目の椽が一人、総務課長のような役目の目が一人、一般の役人的な史生が三人置かれ、戸籍、税、農業、教育、裁判、通信、運搬、寺社の取り締まりといった業務を行っていました。
発掘された建物の配置は藤原京や平城京の太極殿や朝堂院の配置に酷似しており、近江国衙が古代国衙の典型とされ、その後各地で発掘された国衙跡の拠り所とされました。
近江国庁が置かれたのはこちらの地図でもおわかりのように、瀬田川に近い琵琶湖の南東です。当時は琵琶湖から流れる瀬田川の水運を利用して都に様々な物資が運ばれていました。まさに要となる場所に近江の国庁が置かれていたことになります。
近江国庁は日本で初めて国庁の全容が明らかになった貴重な遺跡。国の史跡に指定されています。