古代、新しい天皇が即位するたびに、天皇の名代として伊勢神宮に奉祀した未婚の内親王を斎王といいますが、その斎王が宮中から伊勢神宮に赴くにあたり、途中で宿泊した場所がいくつかありました。それを頓宮といいます。
都から伊勢まで、当時は五泊六日ほど要しました。都が置かれていた場所が変われば、当然伊勢神宮までの行程も変わります。土山を通るルートは、いうまでもなく京の都と伊勢を結ぶものです。京都を出発した一行は、近江国の勢多(現在の瀬田)、甲賀、垂水、伊勢国の鈴鹿、一志を経て伊勢の斎宮に入りました。
土山に置かれていたのが垂水頓宮で、場所がわかっているものとしては唯一ということで、国の史跡に指定されています。
京の都から鈴鹿峠に向かう阿須波道が開かれたのは仁和二年(八八六)で、それ以前は鈴鹿峠より南の加太越えの道が使われていました。連載の関で、それについても少しだけ触れていますので、興味のある方はそちらもご覧いただけたらと思いますが、そういうことから土山の垂水頓宮が置かれたのは、仁和二年以後ということになります。
垂水頓宮は国道一号線沿いの茶畑の奥にあります。
ここにどのような建物があったのか、斎王の一行はどのような感じでここで一晩を過ごしたのか。垂水は京に別れを告げる最後の場所。天皇に「都の方におもむき給ふな」と与えられた櫛を小箱に納めてお守りにする行事がここで行われたといいます。
木立に囲まれた静かな頓宮跡で、当時の様子を思い描いていると、風が木々を揺らし、空気が入れ替わったように感じました。
ちなみに、後日瀧樹神社のケンケト踊りについて投稿しますが、瀧樹神社の裏手に倭姫命や斎王が禊ぎをしたという場所がありました。
倭姫命は天照大神の鎮座地を探し各地を巡った後、最終的に伊勢にお祀りしたと伝わる伝説上の皇女ですが、斎王たちが禊ぎをしたということはあったでしょう。神社の裏を流れるのは野洲川。当時は白川と呼ばれていました。
これまで旧東海道中、たとえば四日市の日永や関が伊勢に通じる街道との分岐合流点だったように、旧東海道には常にお伊勢参りに向かう人々の足跡が感じられましたが、今回立ち寄った垂水頓宮跡で思いを馳せたのは、庶民がお伊勢参りに行った江戸時代よりもはるか以前の、天皇家が伊勢との関わりを強め深めていった古代でした。