亀山は亀山城の城下町でもありました。
亀山城の前身は、文永二年(一二六五)伊勢平氏の流れを汲む関実忠により築かれた城で、現在地とは別の場所にありました。その後天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉配下の岡本良勝(宗憲)が自然の地形を利用して新たに城を築きました。それが現在見られる亀山城です。
関ケ原の戦いで岡本良勝が自害した後、旧領復帰を許され入城した関一政や松平忠明らにより、徐々に城の体裁が整えられていきました。
江戸時代の初めには、松江藩主の堀尾忠晴が「丹波の亀山城の天守閣を解体せよ」という幕府からの命令を勘違いし、こちらの伊勢の亀山城の天守閣を解体してしまったようです。結局天守はその後再建されることはなく、寛永一三年(一六三六)本多俊次の時代に、天守台の上に多聞櫓が築造され現在に至っています。
亀山城が築かれたのは丘陵の上。江戸時代には旧東海道から見上げる位置にありました。それがちょうど蝶が舞うように見えたことから、粉蝶城とも呼ばれたそうで、その姿はよほど印象的だったのでしょう。広重も保栄堂版で、宿場の西外れから城を見上げる構図で亀山を描いています。
亀山城周辺保存整備事業の一環として、二の丸帯曲輪や周辺部分が江戸時代末期の状態に復元されています。
またこちらは武家屋敷の遺構、加藤家の長屋門と土蔵です。
亀山では城下町に宿場が設けられたので、旧東海道を歩いていると、あちらこちらで亀山城の遺構を目にすることができます。亀山には宿場の遺構はありませんが、こうした城下町の名残があることで、町の深みが増すような気がします。