桑名側七里の渡し跡の北西三百メートルほどのところに、諸戸氏庭園と六華苑という二つの名庭があります。
諸戸氏庭園は、明治時代米の仲買と軍用御用で成功した実業家初代諸戸清六(一八四六~一九〇六)の、六華苑はその四男で大正から昭和にかけて山林経営で成功した二代目清六(一八八八~一九六九)の私邸として造られたもので、庭はどちらも国の名勝。しかも諸戸氏庭園にある本邸、大門、御殿、玉突場と、六華苑にある洋館(ジョサイア・コンドル設計)と和館がそれぞれ国の重要文化財に指定されています。
諸戸氏庭園は、室町時代には「江の奥殿」と呼ばれた屋敷地を、江戸時代の貞享三年(一六八六)豪商山田彦左衛門が下屋敷、隠居所として使用、明治十七年(一八八四)に初代諸戸清六が購入したもので、清六は元の庭を生かしつつ、御殿と池庭を新たに造り、安らぎの空間としました。
冒頭の写真、庭の奥に見える重厚な建物は明治二十三年(一八九〇)に建てられた御殿です。これは初代清六が妻を亡くし気落ちしていたとき、北西に大きな建物を建てるとよいと聞いたことから建てたもので、庭は酒田(山形県)の豪商・本間家をはじめとする各地の名士たちの庭を参考にしたそうです。
左上は江戸時代からの庭園に手を加えた回遊式庭園。池を中心に草庵や茶室が点在する明るい庭です。
諸戸氏庭園は公開されているところだけでも三千坪の広さです。十五年前に一般公開されるようになるまで、私的な庭として守られてきたこともあり、「うぶ」の名庭といった感じがします。
初代清六は父が商売に失敗し、多くの借金を抱えたまま家督を継ぎ、寝る間も惜しんで米の仲買に励んで財をなしました。そうした苦労から、財を築いた後も時間とお金を無駄に使うことを極端に嫌ったそうです。他方、治水のため山林を購入して植林したり、独力で桑名に上下水道を敷設したりといった社会貢献事業にも熱心に取り組みました。清六による水道は諸戸水道と呼ばれ、昭和四年まで使用されていたそうです。
そんな初代亡き後、二代目清六を継いだのは、四男の清吾でした。
明治三十六年(一九〇六)父が亡くなると、早稲田中学に通っていた清吾は急遽桑名に呼び戻され、二代目を襲名。新居として大正二年(一九一三)に完成したのが六華苑です。こちらもおよそ五千五百坪と広大な敷地で、洋館と和館の前に、芝庭、日本庭園が伸びやかに拡がっています。
六華苑の一番の見所は、ジョサイア・コンドルによる洋館です。
コンドルはロンドン出身の明治のお抱え外国人技師で、鹿鳴館や岩崎邸など多くの建物を残していますが、その大半が東京にあり、六華苑のように地方にあるのはとても珍しいのです。初代清六の時代から諸戸家は岩崎家と繋がりがあったので、まだ二十五歳の若い施主がコンドルに依頼できたのも、そうした繋がりからでしょう。
写真左上に見える塔は、設計当初は三層でしたが、揖斐川を眺められるようにと四層に変更してもらったそうです。二代目清六の若い力が感じられる六華苑は、隠居所として造られた諸戸氏庭園とは好対照をなしています。
なお、諸戸氏庭園は春と秋のみの公開で、今年の秋は十一月三日から十二月二日までです。