寄り道東海道

熱田神宮

今から六千年ほど前の縄文時代ごろに時計の針を巻き戻してみると、名古屋南部の大半は海の中でした。

こちらのデジタル標高地形図で青くなった部分は、その時代海だったと思って差し支えないでしょう。この地図を俯瞰すると、古代の名古屋の海岸線が象の顔のように見えてきます。鼻に相当するのが熱田台地、先日投稿した笠覆寺のある笠寺台地は顔から口の辺りといったところでしょうか。

伊勢神宮に次ぐ大社として古くから信仰を集めてきた熱田神宮は、海に向かって突きだした長い象の鼻の南端に鎮座しています。熱田神宮は古来蓬莱島に見立てられてきましたが、それはこうした地形に由来します。今も熱田神宮の社叢は広大で、境内に足を踏み入れると古代の杜の息吹を感じ、神聖な気持ちにさせられます。太古の昔、海からこの社叢を目にした人が、ここに神仙の住む楽園を見たのは自然な成り行きでしょう。昔尾張には蓬州という雅名がありましたし、名古屋が蓬左と呼ばれていたこともありますが、それらはすべて熱田神宮に伝わる蓬莱思想に発しています。

 

熱田神宮は三種の神器の一つ、草薙剣くさなぎのつるぎをお祀りすることで知られる古社ですが、草薙剣をお祀りするに至った経緯について、次のような話が伝わっています。

第十二代景行天皇の時代、叔母の倭姫命から賜った神剣と火打ち石の入った袋を手に東征に向かった日本武尊は、帰路の途中尾張の宮簀媛みやずひめの元に留まり結婚、剣を后となった宮簀媛に留めおき、都に帰ろうとしますが、その途中で伊吹山の神に祟られ、伊勢の能褒野で亡くなってしまったことから、宮簀媛は社地を定めこの剣をお祀りすることにしました。それが熱田神宮というわけです。

ちなみに草薙剣をお祀りする社地を定めたところ、そこに生えていた楓が自然に燃え上がり、水田に倒れて田の水が熱くなったことから、ここを熱田を呼ぶようになったのだとか。

この剣は元々素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治した際に得た天叢雲剣あめのむらくものつるぎで、素戔嗚尊から天照大神に献上された後、天孫降臨に際し瓊瓊杵尊ににぎのみことに託して地上に下りてきたと記・紀に記されているもので、日本武尊が東征途中野火の難に遭ったとき、剣で草を薙ぎ火打ち石で向かい火を起こして難を逃れたことから、草薙剣と呼ばれるようになっています。

日本武尊と結婚した宮簀媛は、尾張氏第十一代で初代尾張国造だった乎止与命おとよのみことの娘で、兄の建稲種命たけいなだねのみことは日本武尊の東征に副将軍として従ったと伝わります。

この話をすべて史実として捉えることはできませんが、大和朝廷成立の黎明期に当地の豪族尾張氏が朝廷と深く関わりを持っていたことを教えてくれます。事実、五世紀の末から六世紀にかけて尾張氏の娘がたびたび朝廷に后として迎えられ、外戚としての地位を得ていました。その最たるものが、尾張連草香の娘、目子媛めのこひめ継体天皇の后妃となり、安閑天皇と宣化天皇を生んだことでしょう。

 

  

熱田神宮の西を通る国道十九号線を北に五百メートルほど行ったところに、尾張地方最大の前方後円墳である断夫山古墳だんぷさんこふんがあります(左上)。五世紀後半から六世紀初めごろのもので、かつては宮簀媛の墓として熱田神宮の管理下に置かれていたこともありますが、現在は尾張氏の首長墓だろうとされ、国の史跡に指定されています。また断夫山古墳の南三百メートルほどのところにも、断夫山古墳より規模は小さいですが、白鳥古墳(右上)と呼ばれる前方後円墳があります。日本武尊の墓とかつてされていたので白鳥という名前がついていますが、実際のところ被葬者は不明です。いずれにせよ、熱田神宮のすぐ近くに前方後円墳が二基あることからも、熱田における尾張氏の存在とその勢力が想像されます。

冒頭触れたように、熱田の地は古代海に面していました。縄文から弥生時代にかけて、東南アジアや中国、朝鮮半島、九州など海を渡ってきた人たちが上陸し、集落を形成、やがて氏族を形成するようになりました。彼らは海人と呼ばれ、各地にその足跡が見られます。熱田もその一つで、尾張氏はその海人を祖先に持つ氏族ではないかという説がありますが、尾張氏の本貫については大和の葛城だという説もあり、尾張氏のルーツについては未だよくわかっていません。確かなのは、大和朝廷成立の頃、朝廷と結びつきを強め、濃尾平野の開拓に力を注ぎ自らの国も大きく力を蓄えるようになったということで、宮簀媛の兄が日本武尊の東征に従ったと伝わるのも、両者の結びつきの強さを示しています。おそらく熱田は大和朝廷の東征における、東の前線基地のような位置づけだったのではないでしょうか。

 

熱田神宮は十一世紀後半に藤原季範ふじわらのすえのりの子孫が宮司職を世襲するまで、尾張氏が代々奉仕してきました。広大な熱田神宮、第一鳥居の西に上知我麻神社かみちかまじんじゃが鎮座していますが、これは乎止与命をお祀りする神社です。創建に大きく関わった尾張氏を思いながら、早速境内に入ってみましょう。

  

 

敷地面積はおよそ六万坪。古木が生い茂る熱田の杜は深く、どこまでも続いているような感じがします。すぐ横を交通量の多い国道が通っていることを忘れてしまうような静けさ、聞こえてくるのは木々の揺れる葉音と鳥のさえずり、そして玉砂利を踏みしめる音だけです。

 

 

  

弘法大師お手植えと伝わる樹齢千年を超える大楠。圧倒されます。熱田の杜は楠の巨木が七本あるそうです。

そして冒頭の写真が拝殿。現在は伊勢神宮と同じ神明造ですが、明治二十二年(一八八九)以前は、尾張地方独特の尾張造でした。尾張造というのは、本殿、拝殿の間に祭文殿があり、その三つの社殿を回廊でつないだ左右対称の様式で、尾張一宮の真清田神社や津島神社などに見られます。当時、三種の神器の一つをお祀りしているので、伊勢神宮と同格であるべきだという主張があったようで、社格を離脱して伊勢神宮と同格にする旨の勅令案が閣議ではかられましたが、伊勢神宮の反対もあり否決、神明造による社殿の造営だけ進められ完成しますが、第二次世界大戦による空襲で焼失してしまいました。よって現在の社殿は戦後の再建です。

 

これほどの歴史を持つ熱田神宮ですが、残念なことに空襲で多くの社殿が失われてしまいました。上は戦災を免れた数少ない建物、西楽所にしがくしょです。貞享三年(一六八六)徳川綱吉によって再建されたもので、檜皮葺の屋根が目を惹きます。

写真はありませんが、桶狭間の戦いの前に戦勝祈願し、勝利したお礼として織田信長が寄進した信長塀の一部も残っています。

 

熱田神宮は摂社・末社も多く、ここにご紹介したのはその一部です。平安時代以降、大宮司家は武士団の棟梁としても活躍、源頼朝の母が大宮司家の娘だったことから鎌倉幕府から篤く信仰されましたし、その後も足利、織田、豊臣、徳川といった武将たちの信仰を集めたこともあって、熱田神宮には多くの刀剣が奉納されました。

草薙剣の威力を思わずにはいられません。

 

 

 

 

 

 

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