寄り道東海道

名古屋城

伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ

江戸城は別格として、大坂城、姫路城とともに日本三名城と称される名古屋城。徳川将軍家に次ぐ御三家の筆頭、尾張徳川家の居城だった名古屋城は、上記の俗謡にもあるように、近世名古屋の発展を大きく支えてきた名古屋のシンボルです。

簡単に名古屋城の歴史を振り返ってみましょう。

徳川家康は関ヶ原の戦いを制したとはいえ、大坂城には豊臣秀吉の遺児秀頼が、清洲城には秀吉恩顧の福島正則がいたことから、体制をより盤石にする必要がありました。まず福島正則を安芸に移し、清洲城には四男の松平忠吉、次いで九男の義直を入れますが、清洲は水害に弱かったことから、大坂方に対する防衛拠点として名古屋の地に白羽の矢が立てられました。

戦国時代そこには駿河の今川氏が尾張進出の拠点として築いた城があり、その後織田信長の父・信秀が今川氏から城を奪って那古野城とし、そこにまだ幼い信長を置いて自身は古渡城に移ってしまったので、形の上とはいえ子供だった信長が城主をつとめたというように、各時代要となった場所でしたが、何よりここは名古屋台地の北西端に位置し、濃尾平野を一望できましたし、台地の西と北は切り立った崖でその下は低湿地だったので防御にも適していたのです。

慶長十四年(一六〇九)から十五年(一六一〇)にかけて、家康は秀吉恩顧の西国大名二十家に名古屋城普請を命じています。前田利光、浅野幸長、池田輝政、福島正則、黒田長政、加藤清正…といった顔ぶれで、諸大名は石高に応じて担当する場所を割り当てられました。中でも高度な技術を要する天守台の石垣は加藤清正が中心となって手がけています。延べ五百五十八万人が石垣普請に関わったといいますから、まさに天下普請、大変な大工事でした。

慶長十五年に工事を始め、ほぼ完成したのは二年後の慶長一七年。築城工事とほぼ同時に、廃城同然だった清洲から城下町をごっそり移転し、名古屋城下町が造られました。そして元和二年(一六一六)家康の九男義直が初代城主として名古屋城に入り、尾張徳川家が誕生したのです。

現在の城域は堀を含めおよそ二十四万六千平方メートルで、大天守、小天守のある本丸を中心に、南西に西の丸、南東に二の丸、南に三の丸、北西に御深井丸という構成でした。

冒頭の写真は有名な金の鯱を頂いた五層の大天守です。高さはおよそ五十五、六メートル、延床面積四千四百二十四、五メートル。江戸城と大坂城の天守の方が高かったようですが、いずれも江戸初期に焼失しているので、江戸時代を通じて存在した天守ということでは最高ですし、延べ床面積については他の追随を許しません。要するに日本一の天守と言ってよいでしょう。

  

この壮麗な城は桃山芸術を代表する遺産であるということから、明治の廃城令の際に姫路城と共に保存されることになりました。けれども第二次世界大戦による空襲でこの大天守をはじめ多くの貴重な遺構が失われ、現在の天守は昭和三十四年(一九五九)市民からの膨大な寄付を元に鉄筋コンクリートで再建されたものです。城域内が国の特別史跡、二の丸庭園が国の名勝に指定されています。

それから半世紀以上が過ぎたいま、耐震性の問題や設備の老朽化もあって、名古屋市長の河村氏が木造による再建を主張、昨年には議会で木造復元関連予算案が可決され、二〇二二年完成を目指し事業が開始されましたが、いくつもの問題が浮上しているのは、新聞報道などでご存じのことと思います。

名古屋城は国の特別史跡に指定されているので、木造天守を復元するには文化庁の許可が必要です。ところが許可を得るための基本計画の段階で、石垣の保全方法を市に助言する有識者による石垣部会から待ったの声が上がり、予定通りの進行が難しくなってきたようなのです。

天守の石垣の中でも大天守の石垣は、飛び抜けた技術を持つ加藤清正が築いたものですし、その他本丸などの石垣には、卍や鳥居、つなぎ団子といった様々な刻印が刻まれており、工事を担当した諸大名の仕事が伝えられています。建物は焼失しても石垣は当時のまま残っているわけで、「石垣こそ名古屋城の本質的価値で、天守復元工事は石垣を傷める恐れがある」ことから、建物の復元よりもまずは石垣の保全、補修に取り組むべきではないかというのが、石垣部会の考えなのです。

またエレベーター設置を巡る問題もあります。河村市長は実測図に基づいて忠実に復元するためエレベーターは設置しないというお考えですが、スプリンクラー設置は必須なわけで、忠実な復元を理由にエレベーターだけを排除するのはおかしいと障害者団体は反発しています。

そうした中、つい先日、エレベーターの設置に代わって、ロボットのような新技術でバリアフリー化することにしたと知りました。また四日の定例議会では木造調達費用九十四億五千五百四十万円の請負契約を結ぶ議案が可決され、完成期日厳守で進むことになったという記事を見ました。石垣については、研究強化のため「調査研究センター」を設置するのだそうです。

石垣を傷めず再建できることを願っています。

 

 

天守閣の再建に先立ち、今年六月に本丸御殿の復元工事が完了しています。本丸御殿は京都二条城の二の丸御殿と並ぶ書院造りの双璧で、車寄せ、玄関一之間、二之間、表書院、対面所、上洛殿、御湯殿書院、黒木書院などで構成されていた絢爛豪華な建物でしたが、ここも第二次世界大戦で焼失し、そのままになっていました。

本丸御殿の壁に直接描かれていた絵画は焼失してしまいましたが、襖絵や杉戸絵、天井板絵などは疎開していたため災禍を免れ、そのうちの千四十七面が重要文化財に指定され、大切に保管されています。

  

 

私が行った二〇一四年にはまだ玄関と表書院しか出来ていませんでしたので、見学したのはごく一部ですが、それでもその豪華さを実感できました。右上は虎や豹が描かれていたことから虎の間と呼ばれた玄関です。(襖絵は復元模写)

  

またこちらは国の名勝に指定されている二の丸庭園。幼い信長がいた那古野城は、二の丸があったところに置かれていました。二の丸の建物は現存しませんが、庭園が当時の様子を伝えています。

名古屋城は第二次世界大戦でほとんどが焼失しましたが、三つの櫓が焼けずに残りました。上はそのうちの一つ、東南隅にある巽櫓です。櫓ですが天守級の立派な建物、焼け残った櫓はいずれも国の重要文化財に指定されています。

 

ちなみに、連載の宮でも触れたように、名古屋城と東海道や熱田の湊は七キロほど離れていましたが、福島正則によって名古屋台地西端に堀川が開削されたことで、両者の距離は一気に縮まりました。

上の写真は名古屋駅に近い納屋橋から見た堀川です。いまはこのような現代的な風景ですが、江戸時代納屋橋の南には清洲城から移した蔵が並び、米や味噌、木材などを積んだ船が往来していたそうです。堀川が名古屋城と城下町の発展を支えたと言っても過言ではないでしょう。

 

 

 

 

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