有松は鳴海宿の東二キロほどのところにあります。
江戸時代の初め、有松付近は東海道沿いとはいえ、何もない荒れ地で治安に支障をきたしたことから、尾張藩は知多半島から移住者を募り集落を造り、間の宿としました。
当初は何もない丘陵地帯を切り開いて造られた町だったため農業には適さない土地でしたし、鳴海宿のすぐ近くだったので間の宿としての利用もさほど多くはなく、苦しい経営が続きました。
そうした中、最初に有松に移住した一人、竹田庄九朗が名古屋城普請のため豊後から来た人の絞りの服にヒントを得て絞りを考案、手ぬぐいとして販売したところ、土産物として人気を博しました。それが有松絞りの始まりと言われ、有松の中心には竹田庄九朗の顕彰碑があります。
また豊後国から移住した医師三浦玄忠の妻が、豊後の括り絞りの技法を伝授したことで、有松絞りは大きな進歩を遂げたとも伝わります。生地の下から指で布を持ち上げて糸で巻き、鉤針の尖端で刺して引っ張った状態で絞るその技法は三浦絞りと呼ばれています。
有松で絞りが盛んになると、鳴海などの周辺地域でも作られるようになっていったことから、有松は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴えます。天明元年(一七八一)有松は絞りの営業独占権を認められ、繁栄を謳歌しました。
現在見られる豪壮な建物はその名残です。
有松に独占権が与えられたといっても、鳴海を含む周辺地域に下請けに出されていましたし、宿場である鳴海でも販売されたこともあって、旅人には鳴海絞りとして認知されるということもあったのでしょう。江戸時代以来たびたび有松と鳴海は本家争いを繰り広げるようになりました。
昭和四十五年(一九七〇)有松・鳴海絞りとして国の伝統工芸品に指定され、昭和五十九年(一九八四)には有松に「有松・鳴海絞会館」が出来たことからもわかるように、現在有松と鳴海の間の争いは解消されています。
会館では職人さんによる括りの実演を見学することができます。気が遠くなるような細かい作業で、私などにはもし技術を持ち合わせていたとしてもとても出来そうにありません。この日実演されていた職人さんは二人。
「こうやっておしゃべりしながらやっとるからね」と、ベテランらしい余裕のお言葉でした。
絞りの種類は百種類以上もあり、現在七十種類ほどが残されているそうです。縫絞、くも絞、三浦絞、鹿の子絞、雪花絞…といった具合で、冒頭の写真は後藤昭三さんによるもので縫い絞りと竜巻絞りが組み合わせてあります。
有松絞りというと手ぬぐいや浴衣生地といったイメージですが、名古屋市長の河村さんがよくお召しになっているようにシャツやネクタイといった紳士物もあります。
手の込んだ絞りの生地は、どれもふんわりと空気を含んだように柔らかく、優しい肌触りです。
ちなみに、有松では毎年六月上旬に有松絞り祭が行われます。(今年は六月二日と三日でした)掘り出しものもあるかもしれませんので、お近くの方、興味のある方は是非来年のお祭りにいらしてみてください。